「仏性」を探して
最近よくかかってくるのが
「電気料金がお安くなります」
という電話である。
高額な電気給湯器を設置して、夜間の安い電気料金でお湯を沸かすと良い…ということらしいのだが夜間にまで頻繁にかかってくるので、
「ウチは薪でお風呂を焚いてます。薪のお風呂は良いですよ」
といったらそれっきり掛かってこなくなった。「お寺→薪でお風呂」というのが説得力を発揮したようだった。
こんなのは序の口である。
「NTTの者です」
と言って電話機のリース業者が家に上がりこんできたり、
「京都府の者です」
というので話を聞いたら、何のことはない京都府下の電話リース業者だったりする。同和団体を名乗って書籍を買えという脅迫まがいの電話もかかってくる。金の先物取引の勧誘であるとか、新興宗教からの折伏の電話などなど…
ここ数年そういうことが延々と続いて、<人を疑う>というような気持ちが再々起こるようになった。そして人を疑っているという自分に自己嫌悪するという秋循環に陥るようになった。
先日、気功家の山口令子先生にご指導を受けている時にふと「仏性」という言葉を思い出した。
誰にでも「仏性」がある…ということは昔から言われていることである。だがその時、「仏性」という言葉にとても納得できたのである。
相手に悪意や無理解や自己中心の心があっても、それがどんな相手であっても「仏性」がある…と思うと、心があまり波立たなくなった。
それ以来時々こんな遊びをするようになった。
例えばスーパーに買い物に行って、見ず知らずの他人とすれ違う時も、「この人にも仏性がある」「あの人にも仏性」がある。と思うのである。
今でもいろんな嫌な目にあって相手とぶつかったりすることは少しも変わりないのだが、
どんな相手であっても最後はその「仏性」によって導かれる。その意味では相手は自分とかけ離れた存在ではないということが少し理解できたような気がした。
相手の愚かな行為も自分がいつかは通り過ぎた道かもしれない。
一番大きな収穫は相手に仏性があると思えると、自分にも仏性があるということが得心できるようになったことである。言い換えれば相手の仏性以外に部分を見続けていると、自分の仏性にも自信がもてなくなっていたということかもしれない。
少し前に広いロビーで休んでいた時のことである。
そこにはいつも大勢の人がいるので私は一人一人を眼で追いながら「あの人にも仏性がある」「この人にも仏性がある」と心に思っていた。
ところがその日はロビーに居たのは私と1人の男性だけだった。
いつものようにその男性を見て「この方にも仏性がある」と思った後、一人の時はどうしたものかと思って、その男性を見ていたら、その方の親や子供や兄弟や、ご先祖様や子孫に至るまで、その方につながる大勢の人々が頭に浮かんで、やはりそれぞれに仏性があると感じられた。
その感覚がなんとも居えず心地よくて、急に風景が変わって見えた。
今でも時々、その心地よい感覚を思い出すことがある。
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