「仏性」と「消えていく姿」
夕方になると夏の匂いを感じる日が多くなった。
ただ朝晩は肌寒いほど冷え込むので要注意である。
昨日は夜12時頃、山門前の倉庫に荷物を取りにいこうとしたら、何か動くものが居たので少しドキリとした。よく見ると山門のところに野うさぎが居た。私を見つけて暫くじーっとこちらを見ていた。(野うさぎは危険を感じると、一旦静止する習性があるようである。)の野うさぎは私との距離が3メートルくらに近づいてからようやく丸いお尻を振って駆け出していった。
今日の夕方の空はとても綺麗でした。
時々、仏性について考える。
最近、ふとしたことで誰にでも仏性があるということがなんとなく納得したことがある。もちろん浅いレベルではあるが…すると自分自身にも仏性があるということに少し実感がもてるようになった。それまでは嫌というほど他人を疑い、またそういった自分を嫌悪していたのだが、そのことでここ数日気持ちがとても軽くなった。本当に有難い。尤もこれがいつまで続くか分からないが(笑)…
では仏性以外の部分というのは何だろうか。
最近、私がとても惹かれるのは「消えてゆく姿」という考え方である。
「消えてゆく姿」を唱えたのは五井昌久という宗教家である。
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仏性以外の全ては様々な因縁の生起によって作られたものであり、縁によって生成し消えてゆくというプロセスをたどる…それが消えてゆく姿という考え方である。
仏性以外のものは全て、いずれは消え去っていく。
ただ仏性だけが残る。
一部の宗教や思想家の中には自分の悪を延々と掴んで放さない人達がいる。
「自分はこんなに悪いことをした」「自分はこんなに悪い人間だ」と公言している人達がいる。だがそれは非常な錯覚である。ある種の露悪趣味である。もっと単純には嫌らしさがある。
自分の悪も他人に悪もただ消えてゆく姿として受けとめ、そこに拘らず、ただ反省し、自得すべきとこころは自得する。
歴史について言えば<日本の軍国主義の悪行>をやたらと喧伝する人達がいる。
この人達にも私は同じ空気を感じて強い嫌悪感を感じるのである。
「消えてゆく姿」というのは因縁論としても深い意味を持っている。
五井昌久は因縁をよくテープレコーダーに例える。
なんでも録音できるテープレコーダーがある。
このレコーダーは録音したものを再生すると同時にそれが消去する機能がある。
自分のなした悪しき思いも行いもこのテープレコーダーに記録される。それが因縁という働きによって再生されるときに、悪しき結果として自分に降りかかってくるが、同時にそれは過去に録音、蓄積された因縁が消えていく姿であるというのである。
ところが自分にふりかかってきた悪しき事柄を恐怖や他人への憎悪や未来への不安で置き換えてしまうと、それがまた新たに記録されてしまう。自分に生起したことがらは全て過去の誤った思いと行いによるものとして受け止めるしかない。
それによって記録されたものがひとつひとつ消えてゆく。
そして最後に残ったもの。また決して消えることのないものが仏性と呼ぶべきものであるというのである。
「消えてゆく姿」というのは今の私の感覚にはとてもぴったりくるものがある。
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