夏の空と<癒し>

数日、猛烈な暑さである。

2日ほど炎天下で作業して、平行して法事2件と、法要1件というスケジュールをこなしたらかなりバテた。しばらく雨が続いて気温が低かったので身体が暑さにうまく対処できていない気がする。それとも歳のせいか…

境内の向かいに公園がある。周りを山に囲まれているのでいろんな生き物の痕跡がある。

妻が愛犬の散歩に出かける公園に巨大な排泄物があったという…

「どれくらい大きかった?」と私が聞くと
キングコングくらい」
「…それは大きすぎなのでは」
「じゃあゴリラくらい」
「…」

一体何が棲んでいるのやら…

今日は兼務している山寺に留守番に。
帰りに田園地帯を走っていると雲の様子が夏めいていた。


※ 中央は青葉山

「癒し」という言葉は心地よい言葉である。
だが「癒しの画像」という言葉を検索すると、ペットの写真だったり、自然の風景だったりする。
「癒しの温泉宿」とか「癒しの足つぼセラピー」なんていうのもある。何だか癒しの大安売りという気がする。

癒しには<身体を癒す>ことと<心を癒す>ことの2つがあるのではないかという気がする。共通項はリラックスすることだろうか。

だが究極の癒しは<魂を癒す>ことではないかと思う。

東洋医学の本を読んでいると、身体を癒すことで心が癒される事例が沢山眼につく。
ならば究極の癒しである魂を癒すということも、心を癒すということ、身体を癒すということと無縁ではないのかもしれない。

薬師如来という仏様は手に「薬壷」(やっこ)という薬の壷を載せている姿が有名である。
その中にはどんな薬が入っているのかな?と想像することがある。

もしかしたら仏様が存在してくださることそのものが癒しなのかもしれない。

最近、あるご住職に大変に興味深い話を伺った。
菩薩様は説法されるが、仏様の最上位である如来様は一切説法されないというのである。如来様はただそこにおられるだけなのだという。ただ存在するだけで癒しになる…そう考えると、私たちが癒しと呼んでいるものは殆どが自分の人生に欠けているものを補うというものばかりではないかという気がする。その違いは何なのだろうか。ペットや自然を見て私たちが癒されたと感じるのも、そこに、<ただあること>への充実感があるからなのかもしれない。


実は自分が既に癒されていた…ということに気がつくというのが究極の癒しであり、宗教の極意かもしれない。そんなことを時々考える。
ブログランキ

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