テレビの中の餓鬼

本日の最高気温は33度。
相変わらずの猛暑だが、空の色や風の匂い中にはっきりと秋の気配を感じるようになった。
秋はもうそこまで来ているのだろう。

ようやくお盆の行事が終わって一息つくことができた。
棚経ではお茶を出して下さる家が多いが、一軒だけノンアルコールビールをグラスについで持って来られた檀家さんがあった。外見はビールそのものなので一瞬眼を疑った。檀家さんのちょっとしたジョークだったのだが、印象に残っている。

朝食後 メロン
昼食後 梨、桃
夜食後 まくわ瓜

本日も朝から施餓鬼のお供えのお下がりの果物を食べている。
フルーツ三昧である。(ご存じと思うが「三昧さんまい」というのは仏教用語である。)
住職夫婦はなぜかお供えに果物を買うことが多くて、食べ物を捨てたりすることが嫌いな私としてはどうしてもお下がりの果物を沢山食べることになる。果物自体は好きなので、毎食果物が食べられるのは有難いが。

【施餓鬼でお供えに使う供米。五色の旗は五如来を表す】

施餓鬼というのは餓鬼道に堕ちた魂を救うことで積徳を為す法要である。
その由来については諸説あって、大変に興味深いが、最近改めて思ったのはこの世で積善を為すことは来世や今生での生活に大きく影響するということである。その意味でも施餓鬼などの法要は必要であり、意味があると思う。

<餓鬼>というと上半身は痩せて、腹部の膨れた幽鬼のような存在をイメージするが、貪るということが過度になると、餓鬼的なるものが心に芽生えるのではないかという気がする。

人間の意識のレベル(或いは魂のレベル)が低くなると、本能的な欲求、特に食べることから意識が離れなくなる。
それは食べても満たされることのない餓鬼の姿に他ならない。

テレビをつけるとグルメとか大食いとかいった番組が多い。
それらを見ているとが時々、餓鬼の世界とあまり離れてはいないような気がして、気持が醒めることがある。

テレビというのは巨大で巧妙な洗脳装置である。
テレビというものををきちんと疑えるかどうかというのは自立して考えられるために最低ラインのハードルではないかという気がする。
新聞のテレビ欄を見ると「感動」、「爆笑」、「大興奮」、「激安」、「毒舌」、「驚異」…心を波立たせる言葉が踊っている、最近のテレビはますます刺激的で、過剰で、浅薄になりつつある気がする。

やたらと美食や大食を面白おかしく取り上げた番組が多いが、気をつけないと餓鬼道と紙一重だなと思うことがある。
仏様の眼から見た時に、テレビを見ている視聴者もテレビの中に映っている美男美女の芸能人達もみな餓鬼に見えたら恐ろしい。

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