子供の頃、虫や小さな生き物達から学ぶこと


朝、座禅をしているとキッチンから妻の悲鳴。
悲鳴の大きさと気配から緊急性は低いと判断して、座禅続行(笑)…

座禅が終わって台所に行くと、流しの中を大型のゲジゲジが這いまわっていた…
ゲジゲジは脚が多くて、スピードが速いのでかなり気持ち悪い生き物だが毒性は無いので安心である。調理用のボールで捕まえて窓から外に逃がした。


子供の頃、夏といえばトンボ、バッタ、カエル、蝶、ホタル、イナゴ、コオロギ…
いろんな生き物に囲まれて過ごした記憶がある。


子供はそういった生き物が大好きだが、同じ生命でありながら、全く異なる外見や生態の生き物を観察し、触れるというのはとても大切な経験なのではないかと思っている。

ポケモンなどのアニメや妖怪が子供に受け入れられるのは、バーチャルの存在としての<異なった生命>への憧れがあるのではないかという気がする。
言うまでもないがアニメを観るより命を持った生き物に触れることがはるかに重要である。


子供はこうした生き物達に触れることで実は人間もいろんな生き方があるということを無意識のうちに学んでいくのではないかと思っている。

自分らしくていい、何かできないことがあってもいい、やりたくないことはやらなくていい、但し自分の好きなことや得意なことはどんどんやればいいという感覚ではないかと思う。


日本の子供達を見ていると何か閉塞感のようなものを感じることがある
あまりにも沢山のやらなければいけないことに埋没させられている気がする。

私自身、子供の頃からずーっと「変わった子供」と呼ばれ、大人になったらなったでやっぱり「ちょっと変わってますね」と言われる(笑)

そのことで自分の人生が大きくつまずかなかったのは、親の愛情のおかげなのか、たまたまの偶然なのか、或いはもっと別の力によるのか、はっきりしないいが、「変わっている」といわれ続けるうちに、いつの間にか、眼の前の相手が少々変わっていることにも眼くじらたてないようになった。

変わっているといっても他人に迷惑をかけないとか、悪意が無いというのは大前提だが、私は人と同じように考えたり、ふるまったりできないということに殆ど無条件で共感してしまうところがある。
もっと単純に表現すると変わった人が大好きなのである(笑)

自分が他人と同じでないこと、他人と同じように考えたり、ふるまったりできなくても自分を肯定できること、或いは他人とズレてしまって悲しかったり、寂しかったり、辛かった無数の経験をどこかにしっかり抱えて生きている感覚がある。そしてそのことを大事にしたいと思っている。


もうひとつとても大切なことがある。

子供が身の回りの生き物に向ける好奇心というのは人間の持っている根源的なエネルギーにつながっているのではないかということである。

好奇心は人間が新しい環境に飛び込んでいったり、自分の中の新しい一面を表したり、積極果敢に人生に立ち向かっていこうとする未知に向かうエネルギーにつながっているのではないかと感じている。

最近は日本人全体が内向きで引きこもった印象を受ける。
バックパッカーとして世界を放浪したり、海外に留学する若者が急激に減っている。

このことは好奇心の枯渇ということと無縁ではないと思っているし、本当なら好奇心の塊であるはずの若者から好奇心が無くなりつつあることに非常な危機感を持っている。



ではどうしたら好奇心は取り戻せるか?

やっぱり子供の時に山や川辺で遊び、いろんな小動物に触れる、そんな昔ながらの子供のあり方が原点ではないかと思うのである。

その大切さをふつうの大人も政治家も、経済人も、偉い人も偉くない人も真剣に考える世の中になってほしいというのが私のささやかな願いである。

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