私がお坊さんになっても

【本日の境内】


秋が終われば冬が来る 本当に早いわ 
 森高千里「私がオバさんになっても」


本日と昨日は今月最高の快晴。
山寺の紅葉もいよいよ終盤を迎えつつある。




80年代のアイドル達の映像を時々Youtubeで観ている。
誰もが、可愛らしく、美しく、観ていて飽きることがない。

ところがその歌詞の中に何か哲学や宗教に通じる感性があるか…と探してみてもそこには恋愛の甘さ、失恋の苦さくらいしか歌われていない。

そもそもアイドルの中に哲学や宗教を求めるのが笑止であると言われるかもしれない。
ただアイドル全盛の時代というのは日本人が深い根っこや哲学や宗教的感性のようなものを無くしていったことのひとつの側面でしかないのではないか…という気がしていて、ただその美しさ、可愛さに酔ってもいられない気がするのである。



森高千里の名曲「私がオバさんになっても」の映像を観ていて、ふと小野小町の歌を想い出した。

 花の色は うつりにけりな いたづらに
   わが身世にふる ながめせしまに


小野小町の歌は正に森高の「私がオバさんになっても」と同じにニュアンスを持つのではないかと思ったのである。
小野小町は絶世の美女として知られた平安朝の歌人である。
この歌は小野小町が容姿の衰えを嘆き世の無常を歌ったとされるが、果たしてそうであろうか…
そこには単なる悲哀や無常観しかないのであろうか…

森高千里ならオバさんになっても十分美しいはず。
その森高がオバさんになることの悲しさを歌って見せる。その同じ感性で小野小町はこの歌を歌ったのではないか。
言いかえると小野小町は平安朝の森高千里だったといえるのかもしれない、いや森高が現代の小野小町だったのか…いつもの妄想とご容赦願いたい。


 
美しかったもみじもいよいよ散る時節を迎えた。
散りゆくもみじこそ無常の迅速と、その迅速さ故の尊さ、美しさを教えてくれている気がする。





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