山寺のサリバン先生 曼荼羅式恐喝法
本日は妻と交代で梅の収穫。
今年は紫蘇が入手できなくなったので僅かしか梅干ができない見込み。ちょっと残念…
妻が梅を採りに行っている時、昼寝をしていた娘が眼を覚ました。
幼児は体温が高いので身体がしっとりり汗をかいていた。
しばらくして「あちゃ、あちゃ…」と言う。
私は「お茶」が飲みたいのかと思い、麦茶を持ってくると、小さな喉をこくこく鳴らしてお茶を飲んだ後、また「あちゃ、あちゃ…」
暫くすると、洗濯物の中から妻のTシャツを持ってきて
「あちゃ!」
と言う。
どうやら「あちゃ」というのは妻のことだと判明。
私のポロシャツを見せるとちゃんと「おとと!」というではないか。
ものを名前で呼ぶという、ベーシックな言語行動がすくすく育っていることに改めて感動。
ヘレンケラーに「水」=「ウォーター」を伝えたサリバン先生のエピソードを思い出した。
少し大げさか…
山寺の子育ては毎日新鮮なのである。
ちなみに娘のズボンを娘に見せると
「あっし!」
と言う。
どうやら一人称のつもりらしいが江戸時代の職人みたいでちょっと変である…
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曼荼羅というのは興味深い存在である。曼荼羅には本尊を中心に多数の仏が配置されている。ひとつの本尊から無数の仏が生まれ、無数の仏が一体の本尊に帰一する。
全にして一。一にして全。
one for all , all for one…
曼荼羅という世界が提示されることで個々の仏の扱われ方にどういう変化がうまれるのだろうか?
正直言ってこのことには最近まで関心がなかったのだが、田中公明氏の「曼荼羅イコノロジー」を読んでからいろんなことを考えるようになった。
あくまで私的な解釈だが本尊になる尊格というのは多数の仏菩薩を従えている、その中心にいるということで<より有難い>という感情が強調されるのではないだろうか。
例えて言うなら
ただでさえ怖そうな親分さんに
「ウチには命知らずの若いもんが仰山いてるさかい、どないなっても知らんでぇ」
と脅かされるみたいな感じか…
商売繁盛なら曼荼羅の中の観音菩薩、怨敵調伏なら明王を曼荼羅の中から選んで祀ることがある。
このように曼荼羅の中のあるいろんな尊格を個別に祀る場合も、その背後に本尊を中心とした仏の世界を提示することになる。
俗な言い方をすれば<バックについている>という状態か。
「ワシのバックにはごっつい怖いお人が控えてはるんや。ナメとったらエライことになるでぇ。他にも沢山の仲間が居てるさかいなあ。」
…こんな感じだろうか?
曼荼羅によって本尊はより崇高に、また本尊を囲繞する無数の仏達にとっても本尊やその他の尊格との関係が付加される。
さらに全体として仏の世界の不可思議さ、玄妙さを感じさせる…見事な関係性である。
もちろんこれはあくまで私的な解釈だが、曼荼羅というものが祀られた背景にはそういう働きがあったのではないか…そんなことをちょっと考えてみた。
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