葉書に眼が点 聖凡不二
昨日、禅宗の御住職から葉書を頂いたら、
金剛院
堂頭老大和尚
待衣下
みたいに書いてあって、それを見た妻は眼が点になっていた。
「金剛院 御住職様」くらいの意味だが私も初めてこの表書きで手紙を受け取った時は少しビビった…
先日は檀家さんからメールが来たのでうっかり末尾に「ぶろぐ坊 九拝」
というように「九拝」という表現を使ったら、
次回から「ぶろぐ坊 九拝様」というメールが届くようになった。
使い方違うんですけど…
ここ数日、気温が高い。明日も24度前後の模様。
今年のもみじは色が悪くなりそうな予感である。
もう少し冷え込まないと鮮やかな色にならない。
舞鶴市から携帯に情報を配信するサービスがあり登録しているが、一週間ほどで2回も熊の目撃情報が届いた(大浦地区と田中地区)、いずれも熊2頭の目撃情報である。
熊には出会いたくないが、今年は柿が大豊作なので、柿を目当てに熊が人里に下りてくる可能性は大変大きい。
大きな行事が2つ終わって一息ついたのもつかの間、霊場会(関西花の寺二十五カ所)の年度末総会が舞鶴で行われることになっていて、その事務を任されていたことをすっかり忘れていた。
会期は来月中旬…と油断していたが、タイムスケジュールを考えるとあまり時間が無い。紅葉シーズンも間近なので、その準備にも追われはじめているし、幼い娘にも時間を割かなければならない。
なんだか慌ただしく時間が過ぎてゆく。
お坊さんというとものすごく特別な人と見ている方がある半面、逆にものすごく俗なナマグサ坊主という両極端な見方があって時々困ってしまう。
実感としては聖と俗の2つの時間を行き来きしている。
少し不思議な職業だなあといつも思う。
密教的には<聖>と<俗>の2つは一致するはずなのだが、とりあえず俗だけで終わらず、俗の中に聖を見いだせたらと思う。
密教の「聖凡不二」という考えは素晴らしいし、大変に奥が深いと思う。
最近、この「聖凡不二」について座禅していたら少し面白いアイディアが浮かんだ。
これをもう少し発展させたいと思っている。
そういえば先月に兼務寺院で大きな法要をようやく終えて、キッチンのテーブルに座っていたらふとある感覚が湧いてきた。
自分の眼の前にある全てのことの背後には無数の時間や因果関係があってそれらを経て自分がいろんなものと出会っているということである。
良いことも嫌なことも含めて、無限といえるほどの時間の流れの果てに私の眼の前にあるのに、私は常にごく表面の好き嫌いといった感情でしか物事と出会っていないという気がしてきた。
この感覚は少し面白いと思って時々反芻している。
俗が聖を資するということのほんのわずかな一端なのかもしれないと思っている。
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