歴史への遊想 デジタル仏壇って…

午前中、法事が一件。

法事の後の御膳についたら久しぶりに親族の方が集まったせいか誠に和気藹々とした雰囲気だった。

故人の没後何十年経っても親族が集まり、故人への思い出話が尽きない…とても良い法事だったなあと感じられた。



舞鶴の泉源寺にある智性院というお寺が中心になって、京極マリアの顕彰と地域興しの活動が行われている。


本日は福井県にある福井県立若狭歴史民俗資料館の学芸員の方を招いて、京極マリアと丹後、若狭をめぐる歴史講座が行われた。

その他にもしめ縄造り、参加者の願いを書き込んだボードの作成、おぜんざいとポップコーンのお接待など大変盛りだくさんの楽しい内容だった。

   
  【福井県立若狭歴史民俗資料館】http://www.pref.fukui.jp/doc/rekimin/


若狭と丹後は長い間抗争の歴史があったそうである。

若狭の若狭武田氏と丹後の一色氏が抗争を繰り広げ、ちょうど私の住む山寺近辺はかなり激しい攻防が繰り広げられたようである。近年は境内の山林から次々に砦や山城の後が見つかっている。


小浜にも山城があって縦堀※は丹後の方に向けて作られている…などという話は戦国時代の生々しさが伝わってきた。


 (※堀というのは城の外周を囲むように作られることが多いが、山城の縦堀は敵の攻撃ラインと並行に作られる。)


関ヶ原後の処遇で丹後と若狭に同じ京極家が配された。


京極高次は若狭の領主となり、京極高知は丹後の領主となった。


二人の生母である京極マリア舞鶴の泉源寺に隠棲していたのは、この地がふたつの領地の間にあって往来に都合が良かったということもあるのかもしれない。


京極マリア直筆の手紙は発見されていないが、近年、「満(ま)」とサインされた手紙が見つかった。

当時の女性は名前の一字でサインに替える習慣があったそうだが、文面から京極マリアの直筆の手紙である可能性が高いとのこと。



僅かな時間でも歴史の遊想に想いを馳せる素敵な時間だった。


月刊寺門興隆 2009年3月号 (No.124) (寺院住職実務情報誌)

月刊寺門興隆 2009年3月号 (No.124) (寺院住職実務情報誌)


お坊さん専門誌「月刊住職」を読んでいたら「デジタル仏壇」の記事が。


仏壇の扉を開けると7インチのモニターが現れて、読経と共に故人の名前の記された位牌、仏具、故人の写真などが映し出されるのだそうだ…


おまけに本山や菩提寺からのお知らせ、年忌法事の案内、累計のお参りの回数なども表示され、何よりの特徴は仏壇の開閉が独居老人の安否確認システムにリンクしていることなのだという。

仏壇を3日以上閉め切っていると家族の連絡先にその旨がメールされるのだという。

こういう機能は別に仏壇である必要はないと思うが(笑)、はたしてこういったものがこれからも普及するのか否か…


但し独居老人のケアや安否確認というのは大変重要な課題だと感じる。

檀家さんに何人か独居の方が居られるが、お寺としても何かできることはないか思案しているところである。

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