雪の山寺へ  カップ一杯の幸せ 

老僧に兼務寺院の多禰寺を見回りに行くように言われた。
(兼務寺院といってもこの多禰寺が老僧の生まれた場所である。)


幸い道路は除雪車が庫裏に住む妹夫婦が懸命に雪かきをしていた。


本堂、寺務所、境内は雪に埋もれていた。


【梅の老木が雪をまとっていた】


【永代供養塔は完全に雪に埋もれてます】


【本堂の垂木が折れませんように】


寺務所の屋根の垂木が折れないように、雪を落とし、落雪の圧力で窓が割れないように最低限の除雪。

本堂の垂木が気になったが、高すぎてどうしようもなかった。

多分、この寒波をしのげればなんとかなる…と楽観的に考えている。



もうひとつの兼務寺院である観音寺は3つのお寺なかでもっとも雪深い。


道路は倒木で塞がり、参道は雪で埋もれていて、辿りつけそうにない。
節分が終わったら徒歩で上がってみる予定。どんなことになっているやら…


今日は、庫裏の裏手にある千年ガヤの枝が折れて、数か月前に設置したばかりの石の祠が奇麗サッパリ粉微塵になっているのに気がついた。何十キロという枝が高い位置から落ちてくるのだから凄まじい破壊力である。結構高かったのに…(涙)


他にも本堂、鐘楼、弁天堂に倒木、落枝が引っかかっていてどうしようか思案中である。




お茶、コーヒー、紅茶、いずれも好きで毎日かなりの量を飲む。
安い茶葉でも地下水で淹れるとかなり美味しい。ある意味贅沢かもしれない。


ただ良い喫茶店(カフェ)というのはなかなか無い。

時々、冒険して見知らぬお店に入ってみるが成功することは殆どない。

心から寛げるとか、また来たいと思えるもてなしがあるといったお店はそうないのである。



暫く前に思い切って初めてのお店に入った。


とても洗練された感じの店で店員さんも悪い人ではなさそうだったのだが、一杯の紅茶を淹れる間、ずっと常連さんと喋りっぱなしで、私が店を出るまでお喋りが止まらなかった。


そして紅茶を美味しく淹れようという気配は全く感じられなかった。
茶葉は良いものを使っておられただけに余計に残念な気がした。



私は料簡が狭いらしく、こういうことでがっかりしたことをいつもでも覚えている(笑)


だから見知らぬお店に入るというのは私にとってはちょっとした勇気いることなのである。
良い出逢いならいいが、悪い出逢いだと高々お茶一杯のことでいつまでも嫌な気分をひきずるなどというのは割に合わない。


そういうことが全く気にならない人いてちょっと羨ましい。
やはり料簡の狭いというのは損である。


少々大げさにいえば私の人生の目的な居心地のいいカフェを見つけることである。
それくらい一杯のお茶が大事である。
この感覚は多分、普通の方には理解頂けないだろう。
やはり料簡が狭いというのは損である…




お寺というのもお参りに来られる方との出逢いは一期一会である。

自分なりに無様なことをしてしまったと、嫌悪感を感じる思い出もある。
自分が意識してなくても相手に嫌な思いをさせたこともあっただろう。

人間というのはたった一言で傷つけられ、たった一瞬の笑顔で幸せにもなる。


人の心というのは移ろいやすく、不思議である、そのことを努々忘れないようにしたいと思っている。



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