家なきリス 2歳児の限界 生命の大海
朝方、キッチンの窓から庫裏の裏手にある千年ガヤを見ていると、リスが1匹、根株の辺りを駆け抜けて行くのが見えた。
…それにしても最近、どうしてリスを頻繁に見かけるようになったのか少し不思議だったのだが、少し思い当たることがあった。
それはこの冬の大雪でカヤの大きな枝が何本も折れて落下したことである。
カヤの木の上にリスを見かけたことがあるので、大規模な折れ枝で、リスの住みかが無くなったとか、リスがカヤの木に住むことに見切りをつけたとか…そんなことを想像している。
家なきリス→ホームリス…
手元にあるコンパクトデジカメのズームでは鮮明な写真はとれそうにないが、いつか鮮明なリスの写真を撮って「リス住職」と呼ばれたい。
デジカメを前にしてあれこれ思案していたら、突然、娘がデジカメを掴んで走りだした…
落として壊されたら一大事なので、掴まえようとするとカメラをコンクリートの玄関の床に向かってブン投げた。
娘は自分の物を取り上げようとすると、ブン投げるという悪癖があるのである。
いったい幾つ大事なものを壊されたことか(涙)
あわや…と思ったが、ちょうど私の作業用のゴム長靴の中に
スポッ!
と入り、無事だった。
やれやれ…
「壊れたらどうするのよ!」と娘に言うと
「直してやる、買おてやる」
と一丁前のことを言う…
2歳児にはどちらも無理だと思うのだが。
動物の供養ということを最近考えている。
生命とは何だろうかと考える…
そもそもこの世界と何だろうか…
昨日、コメントを頂いたQwanzan様から最新の研究では世界が粒子でできているというものがあった。非常に興味深い。
「六大無礙にして常に瑜伽なり 」
とは空海の言葉である。
この世界は6つの微細な要素が妨げることなく溶けあい結合している…というニュアンスを感じる。
これなどどうしても科学的、物理的な世界観にかなりダブってみえる。
さらに生命とは粒子であると同時に波のようなものではないかなという気がする。
生命の“波”性というのはキーワードのような気がする。
(ただ最近いろんな方が「波動」とかいう言葉を使いだしていて時々、懐疑を抱かざるを得ない人もいるが。)
さらに、もうひとつの感覚として生命というのは、全て、大きな大生命から生れ、この世に形を得て、またその大いなる存在へと還っていくのではないかという気がする。
「大生命」というのはかなり美しく、雄大なイメージとして時々心に浮かぶ。
私達はかってはひとつの大きな命なかに溶けあっていたのではないだろうか。
人は人を好きになる、あるいは私達は人間以外のものに対しても好ましいという感情を抱く。動物にも植物にも。
それはかってはひとつだった時の記憶の回想のような感覚なのかもしれない。
あるいはお互いが無くては自分が成立しえないような始原の感覚なのだろうか。
【お気に入り】
矢野真紀さん…素敵な歌い手さんです!
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)