軍都舞鶴をめぐって 

地元にS社というガス会社がある。


社長さんと何度かお目にかかる御縁があり、この会社の新聞を送って頂いている。



新聞はA41枚の分量だが、単なる営業や広告にとどまらず世相、時事、地元のニュースなどが幅広く取り上げられている。



かなり哲学的なことも書いてあって、社長さんが常にいろんなことを考えておられる人だということが伝わってくる。


バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)


前回頂いたこの新聞の中に、舞鶴で行われた養老猛司氏の講演のことが書いてあった。


養老氏は結構舞鶴に来ておられるとのこと。


明治に帝国海軍鎮守府が余部下にできたことによって、一帯が要塞地帯となり、青葉山をはじめとする山々が保護され他の地域とくらべて虫の種類が多いのだそうである。御存じと思うが養老氏は解剖学者であると同時に、昆虫についてもかなりの見識をお持ちの人物である。



数年前に亡くなった方で、舞鶴の歴史や地誌の生き字引のような方が居られたが、この方も舞鶴鎮守府ができたおかげで古い文化が保存されたと仰っていたのを思いだす。


普通、近代化は<自然や伝統文化の破壊>という文脈で語られることが多いが、結果的にせよ、鎮守府ができたことで自然や文化が保存されたというのはとても興味深い。


ただ、軍都として整備する過程で、山腹のお寺が下方に移動させられたり、海辺の村が強制的に集団移住させられたりしたことも事実である。


福知山、綾部、親舞鶴を結ぶ舞鶴線の開通は1904年、日露戦争の年である。


舞鶴の寺院の多くは軍都としての人口増大にともなって開かれたり、布教所が寺院に昇格したものも多い。


もう少し正確には舞鶴の古代、中世は東舞鶴地区に文化の重心があった。


近世に城下町ができ西舞鶴に重心が移動し、さらに近代に軍都として東舞鶴が発展した。


軍都として東舞鶴を新舞鶴と呼んだ時代もあったが、実は舞鶴の発展の重心は何度も東西を往復しているのである。


舞鶴市の広報などを読むと「西舞鶴は近世の城下町。東舞鶴は軍港として近代に発展」というレベルの記述しかなくてがっかりすることがある。もうちょっと地元の歴史を勉強してもらいたい(苦笑)



一昨日は地元の真言宗寺院である大聖寺で法要が行われた。


大聖寺は松尾寺の山内にあった塔中寺院が市街に移転してできたお寺である。


このことも鎮守府の発展と無関係ではない。


そういえば大聖寺山号は「鎮守山」である。


これは鎮守府にちなんだものなのか。そうだとすればこの山号舞鶴の近代化の中でうまれたものかもしれない。


今度、大聖寺の御住職にお逢いしたら聞いてみようと思っている。



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