泣いてチンピラ
コンビニで買い物をしたら、「泣いてチンピラ」という歌が流れていたのでちょっと懐かしくなった。
長淵剛にそんな思い入れがあるわけではないが、昔はちょっとトガった兄チャンだったのが、いつの間にか線の太い、肝の座った、大人の歌手である。
この人の「日本よもっと頑張れ」というメッセージには時々熱くなる。
「男たちの大和」の主題歌も良かった。
私は別にチンピラだった時期があったわけではないが、
上京して裸電球のぶらさがった4畳半に暮らしていたこともあるので、この歌に少し親近感を覚える。
青白い顔をした、頭でっかちの学生だったことが懐かしいような、恥ずかしいような。
そもそも今もあまりその頃と進歩していないのか、していないのか…ではなく。
全然していないと身近からきっぱり言われるかもしれない。
この仕事についていると無条件で「立派な人」と思われるのが少し重荷になることもある。
悩みながら、迷いながら生きていることは変わりない。
人前で法話をしている時に無性に気恥しくなることもある。
自分に偉そうに言う資格はないのではないだろうかと。
あるいはやっぱり自分が選んだ仏教というものが間違っていないという思いも。
人生の毀誉褒貶について振り返ると、
褒められることでそのことが心の支えになったこともあれば
褒められてうかうかと慢心し、大失敗したこともある。
厳しい言葉に叱咤されて、努力したことで自分を成長できたこともあれば、
其の時はうけいれられなかった厳しい言葉が、今となっては自分に非があると気付いたこともある。
単純に言えば、
良い思いはしたいが、嫌な思いはしたくないというのが誰しもの本音だろう。
だが表面的に良い悪いは別にして、自分が何かしっかりしたものをもっていれば、悪いことも自分の善に変えうるのではないか。
成功したいという人は多いが、世間で人も羨む成功を収めた話を聴くと、
自分が仕事を始め、徒手空拳で始めたころが一番楽しかった、一番充実していたという人が多い。
これはちょっと面白い。
成功できていなくても、悪いことがあっても、其の人は幸せを見つけられる。
逆にいうと自分が不幸という状態なのではなく、自分の心が不幸というものをつくりだしているのかもしれない。
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