言葉を紡ぐ
震災の後、災害時の連絡用にツイッターとフェイスブックを始めた。
ツイッターはいつの間にか開店休業状態へ。
フェイスブックは続いていて、いろんな出逢いがあった。
ネットの世界はGoogleやYahooのような検索サイト中心からSNS中心の世界になると予見する向きもあるが本当にそうなるのだろうか。
フェイスブックはMIXYより使いやすい気がするが、気がつくと、やたらとコメントやメッセージをチェックしていたりして、少し心を囚われる気がして少し自粛モードへの道を模索中。
SNSに参加すればするほどコメントなどのレスポンスが帰ってきて、それがどんどん加速していく。
やはりどこかで賢い付き合い方というものを慎重に考えないといけないかもしれない。
舞鶴のような小都市でSNSに参加するとどんどん人間関係が深まっていく。
SNSでしか対話したことない人ともどこかでばったり出会ったりする。
「東京に出張されたそうですね」とか「お加減はどうですか」とかSNSで交わした言葉から挨拶が始まる。
初対面の人でも話が弾んだりして楽しいが、いつかどこかで弊害も出てくるかもしれない。
SNSは日本人に何をもたらすのかは興味あるテーマである。
子供を寝かせる時にいい加減に作った童話を聴かせることが多い。
お寺の横を流れている川で娘が遊んでいると、大きな洗面器が置いてあって、その洗面器に乗って娘が旅をするという他愛も無い話だが、溺れていたカエルを助けたり、助けたカエルと一緒に歌を歌ったりするという全くドラマ性の無い出来事がいくつか起きてくるうちに眠ってくれることが多い。
もっともこの父親は心の底で眠れ眠れと催眠術師の如く念じているし、
言葉もわざとぽつりぽつりと間を空けながら話す。
眠たくなるように繰り返しのフレーズがやたら出てきたりして、
悪賢い技をいろいろ使っているのである。
寝付いたと思ってこっそり部屋を出ようとしておもちゃを蹴飛ばし、パッチリと眼を開けられたりすると非常に悔しいが。
弊害もあって、
話している本人もものすごく眠たくなる。
眠くなってもう仕事やネットどころではなくなることもあってこれはかなり困る…
私は余り子供の頃は覚えていないが、母親が子守歌を歌って添い寝してくれたことを時々想い出す。
そこにはものすごく密度の濃い時間があったと子供心に感じられたのだ、その「濃密な感じ」は何かとずっと心に引っかかっていた。
自分が子供を寝かしつけようとして、やはりそれが子供への想いであることにふと気がついた瞬間があった。
ネヅミーランドで買ってきた風船を娘が大切にしているので、明日からは風船につかまって空の旅にでることにしようと思っている。
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