それはあんまりな… 「舞鶴のあゆみ」 舞鶴の秘史断片

昨年は6月初旬から盛んに咲いたタイワントキワが全然咲かない。ちょっと残念。


同じ関西花の寺の観音寺さんはアジサイが見ごろとのこと。


観音寺さんを経由されてこちらにお参りに来られた方は皆さん大変喜ばれているのが伝わってくる。




知人が剪定の為に山中にある木に登っていたら、サルの群れがやってきた。


ところがどこからか見知らぬ男がやってきてこちらにむけて鉄砲を撃ち始めるではないか。


「人だ!人がいる!」と知人は思わず大声で叫んだそうである。


鉄砲を担いだ男はやってきて言うには


「空砲です」とのこと。



知人がどれほど肝を冷やしたかと思うと可哀そうな気がした。


いくら空砲でも人に向けて撃つのはあんまりだと思うのだが。






久しぶりに「舞鶴のあゆみ」を取り出してみた。


この冊子はわずか35ページで、挿入されている写真もモノクロである。


1988年に郷土資料館で行われた京都国体開催を記念する企画展に合わせてつくられたパンフレットである。


だが、内容は大変に充実していて考古学、文化人類学歴史学などを駆使して舞鶴の通史を試みたものである。


吉坂や志高の石炭層が2億年という日本最古のものであることから説き起こして、舞鶴近現代史にまで言及している。※


これだけ広い視野から分かりやすく、簡潔に舞鶴の通史をまとめたものは他にないだろう。


舞鶴の歴史と文化を知るうえでは必読であると思う。


「あゆみ」という形ではありますが、通史を語ろうとすることは、かなり大胆でもあり、ある意味では、事実として存在したに違いない膨大精細な歴史事項に対して傲慢であるといえましょう。
しかし、あえて「あゆみ」という形で、通史的説明を試みたのは、今それが必要であると考えたからです。


舞鶴のあゆみ」の冒頭である。


そこに何かわくわくするようなものを感じるのは私だけだろうか。
中心になって執筆されたT先生の情熱が伝わってくるようである。


T先生は近年、惜しくも物故されたが、舞鶴の歴史を大切にされた志をその万分の一でも受け継いでいきたいと思っている。


最近、知り合いになった方にこの「舞鶴のあゆみ」を贈呈しようと郷土資料館に電話したら、既に在庫がなく、智慧蔵か商工観光センターにしかないとのこと。


もっと大勢の人たちにこの労作を読んで頂きたいと思う。





舞鶴のあゆみ」のなかでずーっと気になっている箇所がひとつある。


天武天皇と須岐の謎』という一節である。


天皇即位式に夕に「食(あ)へる」“悠忌”(ゆき)と、朝に食べる“主基”(すき)の大嘗会の儀がありますが、天武天皇の即位の主基は、「丹後国訶佐郡(かさぐん)」(日本書記)とあり、それが大浦の千歳であると『田辺府志』は伝えます。
壬申の乱で、天智天皇の御子大友皇子とははりあった大海人皇子尾張の海部の加勢を得て戦いに勝ち即位した人ですから、丹後海部の斎田千歳が重要な意味を持っていたことを意味します。


千歳は近年、火力発電所の稼働に伴い再開発が行われているが、のどかな漁港が広がっている地域である。

天武天皇の即位は673年。気の遠くなるような昔である。


その昔、この千歳がどのような役割を果たしていたのだろうか。


舞鶴にはまだまだ多くの秘史が埋もれているに違いない。




※ 舞鶴には吉坂炭坑、松尾寺炭坑があって日本無煙炭坑という会社によって採掘が行われ、豆炭の製造などが行われていたようである。「鉱山探訪」というサイトの中に舞鶴の炭坑という写真入りの紹介記事があります。関心のある方は調べてみてください。


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