曼荼羅と十字架

 

寿限無 (声にだすことばえほん)

寿限無 (声にだすことばえほん)



落語の「寿限無」に「五劫の擦り切れ」という言葉が出てくる。



天女が、時折天から降りてきて泉で水浴びをし、その泉の岩の表面が天女の衣で微かに擦り減る。
それを繰り返して岩が無くなってしまうまでが一劫とされ、その期間はおよそ40億年ともいわれる。



「劫」という時間の計り方は他にもあるが兎に角、無限に近い時間である。



密教以前に悟りに要するとされた時間は…



三劫



無限に近い「劫」のさらに3倍だからジョークにしか聞こえない。



それに対して、密教の最大の特徴は即身成仏という考え方である。



それまでは悟りに至るには三劫という無限に近い修行が必要と考えられていたのに対し、密教はこの身このままの成仏を可能とする。



無限の修行をワープ?する最大の方法論が三密加持という修行法であるが…



それにしても密教の<両部不二>、聖と凡の一致、煩悩即菩提というプロセス無くしては無限の修行から即身へという飛躍はあり得ないだろう。



尤も、この辺りは本当に分からないことだらけであるが…




以下、妄想が続きます…



曼荼羅の存在が人を仏にするプロセスの大きな鍵であることは間違いないだろう。



ユングは人が癒える過程で曼荼羅的なモチーフを描くとしている。



個性化とマンダラ

個性化とマンダラ



曼荼羅の整然たる形象と心の回復がリンクしているというのは大変興味深い。


もっとも単なる心の回復を超えて仏に至るにはさらなる飛躍が必要だろうが…






様々な宗教にはシンメトリーなモチーフやシンボルが多用される。



曼荼羅のシンメトリーもその中に位置づけて良いだろう。




昨日、十字架について考えた。



十字架とは水平と垂直が交差する単純にして美しいシンメトリーである。




そもそも十字架というのは罪人を処刑する刑具である。



処刑、罪人、裁き…


これらは聖性の対極にあるものではないだろうか。



エス=キリストが十字架に架けられるというのは最も聖なる存在が世俗のなかでも最下層に属するシンボルに合致することを現わしていることではないだろうか。



聖性の最たる存在と世俗性のさらに最底辺なる存在がひとつになるというのは非常に劇的である。




牽強付会を笑われそうだが、密教の聖凡不二の考えと十字架の存在はどこか共通する働きがあるのかもしれない。



さらに…




十字架の縦横の長さが等しければシンメトリーとしてはより完成度が高いが、一般的な十字架は縦軸のほうが長い。



ところが縦軸の長い十字架を観ていると何か垂直方向への力を感じる、その作用は見逃せない。



縦と横の長さの一致した十字架では安定性は高まるが、こうした感覚は生まれないように思う。




さらに大切だと思うのは、この縦長の十字架はそこに架けられたイエスの姿を容易に想像できることである。



抽象的な十字架の形象の中に磔刑に逢ったイエスの姿を観るのである。



曼荼羅とはシンメトリーな形象の中に具体的な仏の姿が布置されている。



シンメトリー性と具体的な仏の存在が一致したものが曼荼羅だともいえる。



そうした観点から十字架を観てもいいのではないか。



妄想はまだまだ膨らみます…





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