観音様と眼の病 誰もが抱く根源的悩み
本日は快晴。空気の澄んだまことに良い一日でした。
明日の天候は不順とのこと。
ブログというのは個人的な忘備の為に書き残しても構わないだろう…というわけで本日はいつも以上に乱筆乱文をお許し願いたい。
先日、何十年ぶりかで清水寺に行った。
全国には清水寺(「きよみずでら」「せいすいじ」)というお寺が沢山存在することが知られている。
清水寺という寺名のお寺は千手観音を本尊とする、境内に清水が湧く、眼病平癒を祈願したなどの共通点を持つ。
【関連記事】http://www.vill.yamagata.nagano.jp/forms/info/info.aspx?info_id=1441
征夷大将軍であった坂上田村麻呂はこの地で千手観音を祀り蝦夷平定を祈願して霊験を得たという。
地元の伝承ではこの『慈眼山 清水寺』の千手観音が京都に勧請されて音羽の清水寺にもたらされたという。
日本を代表する名刹である清水寺の本地が永野にあったというのは面白い伝承である。
そういえば清水寺の縁起では開祖である延鎮は行叡居士(観音の化身)に遇うが、この行叡居士は「東国に旅立つ」という不思議な言葉を残して姿を消すのである。
伝承の中には後世に作られたものが少なくないが、こういう興味ある伝承も後世に伝えてゆけば、それがまた新しい発見の糸口になるかもしれない。
全国のお寺には眼病平癒の効験を謳ったものが大変に多い。
そのことの背景には日本人に大変眼病が多かったという事実があるらしいと以前に書いた。
たまたま友人のSNSの記事を見ていたら、鍛冶神は片眼であり、そのことから鍛冶神を祀る神社や寺院が眼病治癒の効験を謳われるようになったのではないか…と書かれてあってなかなか興味深いと感じた。
それにしても山号が「慈眼」とは面白い。
「慈眼視衆生」という観音経の一節から採った山号といってしまえばそれまでだが、「眼を慈しむ」と解釈すると眼病平癒にはぴったりではないだろうか。
そもそもこの「慈眼視衆生」という一句が「観音」と「眼」を結びつけるのか…
またまた話が飛ぶが千手観音は別名を千手千眼観音といい、千の手のそれぞれの掌に眼を持つとされる。
この千手観音の信仰は奈良以前にさかのぼるが、この千手千眼観音の存在も観音信仰と眼病を結びつける役割を果たしたのか…
そもそも「観」字という字が視覚を連想させたとか…
あんまり妄想ばかり書いていると清水の舞台から飛び降りろと言われかねません。
誰もが抱える根源的悩みがある…と昨日書きました。
生物的な根源の悩み(欲求)としては「死にたくない」或いは「子孫を残したい」だろうか…
もうひとつ全く別の観点に立つと、それは
『悟りを開きたい』
ではないかと思います。
つまり誰もが心の奥底でこの「悟りを開きたい」という悩みを抱え、悶々として生きているということです。
そのことに気づかずに終わる人も多いでしょう。
ですが、全ての人の心の奥底にこの悩みがあると思います。
それは悟りという答えを求めていると同時に、答えそのものも私達自身の中にあるのではないかと思います。
悟りとはもちろん超能力でも霊能力でもありません。念の為。
先日、進化論の本をよんだのですが、宇宙は進化し、向上することを全ての存在に求めているのではないだろうかとふと思いつきました。
文明の進歩も生物の進化も、この<より良い方向を目指して変り続ける>という宇宙の流れのようなもののひとつの現われなのではないだろうかと。
そして悟りを開くとは人間の精神の進化の方向性なのではないかと…
乱筆乱文どうかお許しを。
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