友の友は友 愛は『はい』


本日は晴れ。時々曇り。



昼前にマイミクさんの友人という御夫婦が参拝に来てくださった。もちろん初対面。



まだ幼げな可愛いお嬢さんを連れておられたので子育て話で盛り上がりました。
いろいろお話ができ愉しかったです。友人の広がりに感謝。



お話していいたら「この夫婦面白いっ!」とか奥様に言われてしまいましたが、フツーだと思いますよ…



このお嬢さんは1日おきに「となりのトトロ」をご覧になっているそうで、山寺の奥にもトトロがいたら面白いのにねえと思わずにはいられなかった。




しあわせは微笑が連れてくるの

しあわせは微笑が連れてくるの



産経紙の書評を読んでいたら将棋棋士加藤一二三さんが絶賛されている本が眼についた。



著者はカナダ人。カトリックのシスターさんである。来日65年で、現在は96歳の高齢ながら女子教育に献身して来られた方だそうである。



著書から引用されていたフレーズで印象に残ったのがまず


「当り前のことにもっと感謝しましょう」



これは仏教的世界観に通じるところ大ではないだろうか。



もうひとつは



「『愛』という言葉は日本語の『はい』という言葉と同じことだ」


つまり愛していたら相手のいうことを『はい』と聞きいれるからであるという。



そう考えると信仰も感謝も究極はこの『はい』の心に通じるのかもしれない。



もう少し別のことを考えた。



他力行としての阿弥陀に帰依するとは何事にも『はい』と言えることではないかということである。



全く大雑把な分類だが修行と呼ばれているものは自力と他力という2つの方向性がある。



自力は自ら精進を積んで仏に近づこうとするものであるのに対し、他力とは仏の絶対的な救済の力を信じ、すがろうとするものである。



仏にすがるというと言葉が悪いがもっと分かりやすくいうなら只管、仏を信じ、仏を念じ、念仏を口から絶やさないという生き方である。或いは生き方そのものに、それらを現わすことである。



それは人生の順境では難しくないが、病気や離別や貧苦といった逆境にあってこれを貫くのは大変難しい。



苦しい時にこそ、その苦しさを仏に近付く過程だと捉えるのである。




仏像を彫っていて沢山に切屑が出る、この切屑が不幸である。



不幸に陥るとこの切屑そのものが人生だと思ってしまい、彫っている仏の姿が目に入らなくなる。



他力という修行には平易というイメージがつきまとうが、嫌なこともやはり仏から与えられたものであり、自分は必ず良くなる…そんな気持ちを貫けるというのは大変な心の強さが必要である。




密教はどちらかといえば他力に属するが、究極のところは他力にも通じる。




おそらく他力も自力も最後には一致するものなのだろう。



そんなこと考えていたら何事にも素直に『はい』と言えない自分が少し恥ずかしくなった。




素直に『はい』と言えることはとても大切な資質ではないだろうか。



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