クーラー不審なり ペリリュー島を知っていますか

本日28日は今年最後の不動講。


だが助法の行者さんを除くと参拝は5人…



偶数月は護摩を焚き、円座になって大きな念珠を皆で繰るのだが、あまりに参拝者が少なくて念珠を回せなかった…無念。


念珠を回せなかったのは私が住職になってから初めてのこと。



いくらなんでも参拝者少なすぎ…


来年の目標はとりあえず…


“信者さんをもっと増やす”


にした。



寒い本堂での勤めの後、庫裏でお茶の接待。


クーラーをつけたら…


「このクーラーおかしくないですか?」

と言われた。

このクーラーは駆動すると吹き出し口とは別に機体の上側(このクーラーの用語で“可動パネル”)が開いて温風が出るのである。


クーラーの上側が開いているのって確かにヘン…




私も初めて見た時、てっきりクーラーのカバーが外れているのだと勘違いして、脚立に乗ってバンバン叩いてたのを思いだした。思わず…


「しまりがないですね」


と言ったらちょっとウケた。




戦争とは野蛮な行為である。
そして人類は未だこの野蛮なる行為を是としている。


最近、幾冊か戦記を読み、現在も幾冊の戦記を並行して読書中。


先の大戦に関する日本人の記憶や知識は驚くほど風化し始めている。


太平洋上での日米の戦闘の中でもっとも激烈だったのがペリリュー島での戦闘だったいう意見がある。或いはペリリュー島の戦いは硫黄島に匹敵する激戦地であったとも言われる。


グアムやサイパンラバウル硫黄島といった地名に比して、ペリリューという島はその存在を知られることが少ない。


ペリリュー島は沖縄や硫黄島のように対日戦争上、攻略が不可欠と考えられる要地ではないという指摘もある。



戦史上、最大の激戦地のひとつが戦略上の意義を疑問視されているというのは、戦争の野蛮さと無意味さを改めて考えさせられる。


ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)


ユージン・B・スレッジ「ペリリュー・沖縄線」


訓練場のブートキャンプを経て、ペリリュー、沖縄という激烈な戦闘に参加した兵士の手記である。


著者はペリリューでの戦いの直後に執筆を開始したという。記述の丹念さと具体性。知的で平明な文章などは一読に値する。



ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫)

ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫)

沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間 (光人社NF文庫)

沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間 (光人社NF文庫)


本書と対照を為すのはジェームズ・H・ハラスの著書2冊である。


「シュガーローフ」とは沖縄戦のなかでも最も激烈な戦闘が行われた小高い丘の名前である。


本書ではシュガーローフの戦いに多くが割かれているが、記述は沖縄への上陸から戦闘の終結まで時間を追って記述されている。

スレッジの著書があくまで兵士一個人の手記であるのに対し、ハラスの2冊は夥しい兵士へのインタビューと戦史・公報などを参照し、ペリリューと沖縄での戦闘の全体像を丹念に追う。



ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)

ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)


ペリリューの戦いに参加した日本側の記録も存在する。


ペリリューを守備していた日本軍将兵がいかに奮戦したのか、そして絶望的な戦いのなかで散っていったのかが克明に記録されているのが「ペリリュー玉砕戦 南海の小島 七十日の血戦」。


文字通り粉骨砕身の壮絶な戦闘に、読み進められなくなることが再三であった。





これらを読むと米軍の圧倒的な物量と技術の差に改めて慄然とするものがある。


米軍は上陸前にステーキと卵を食べるのが習いであったという。


戦場では水や食料の欠乏に遇うこともあったが、前線を離れれば暖かい食事が与えられ、アイスクリームまで出たという。



米軍は火炎放射機、ナパーム弾、水陸両用車、重戦車など日本軍の保持していない兵器や重機を縦横に駆使して戦った。



制空権、制海権は日本側に無く、日本軍は激烈な爆撃と艦砲射撃に常にさらされた。


戦力の背後にあるのは工業力、生産力の差でもある。


米軍の戦車に対して日本軍は爆薬や地雷を携帯した兵士による肉弾特攻により数百の戦車を破壊したとされるが、戦後の調査では破壊された車輛の多くが、その場で修復され、数時間後には再度戦場に投入されていたことが判明している。



ペリリュー島の面積は僅か13平方キロメートル。硫黄島の約半分である。(ちなみに千代田区の面積は11平方キロ)



南海の、豆粒のような小島に対し、米軍の投入した戦力は空母11、戦艦3、巡洋艦約25、駆逐艦約30、水雷艇約100、掃海艇数十という圧倒的な布陣である。


米軍は僅か数日でこの小島を攻略すると予想していたが、日本軍は70日余りの徹底抗戦を行ったのである。その壮絶さ故に戦史上屈指の激戦とされながらも、グアム、サイパン硫黄島、などに比してあまりに簡単にしか触れられないことが多いのは残念である。



戦後、戦争への責任が問われたが、戦争の善悪だけでなく、戦争の遂行を含めた国家の意思決定のシステムや、それに携わる人々の資質に大きな病理があるのではないかと感じられる。



資源や生産力や技術力に関する彼我の差を無視して戦争を遂行したのは誰だったのだろうか。


あまりにも不合理な戦略や戦闘が将兵に強いられたのはなぜだったのだろうか。


戦後、あらゆる場面で日本の軍事的行動は裁かれたが、この本質的な病理については未だに放置され、今でも日本を蝕んでいるのではないか…ふとそんな感慨が湧くことがある。

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