甘酒事件 道化師のソネット 子育てという修行



少し前に家人が甘酒を作った。


隣町にある味噌・麹の専門店から良い麹を買ってきて作ったのは良かったのだが、温度管理に失敗したらしく、微妙な酸味がする。


人に飲ませられないし、かといって捨てるのはもったいない…


しかたなくお湯で割って黒砂糖で味をごまかしながらかなりの量の「失敗した甘酒」を飲むことになった。



しばらくして胃腸の調子が良いことに気が付いた。


どうやら甘酒が身体に良いらしいと実感できたので自分でも甘酒を作ってみる気になった。


材料はスーパーで買った麹と炊飯器のご飯だけである。材料費にして200円ほど。


温度管理をして材料を混ぜて炊飯器で8時間ほど保温するとちゃんと甘酒ができた。


(最近になって温度が低すぎると乳酸発酵して酸味が出ると判明した。)




甘酒は砂糖を全く使わないが、なんとも言えない優しい甘さがある。


ご飯の粒はまだ残っているが、発酵のせいか、食感がとても心地良い。
滑るように喉通っていく。




甘酒を飲んでいると久々に身体が欲しているものを身体に入れたという感覚が湧いてくるのである。



塩麹が大変なブームである。


確かに塩麹で調味した食材は確かに美味しくなるが、麹そのものを食べる甘酒のほうが麹の栄養を沢山摂れる気がする。


甘酒を大きめのタッパーに入れて冷蔵庫に保存し、毎日のように飲むようになった。


するとスーパーなどで甘いお菓子を買おうという気が全く起きなくなった。


ケーキ、和菓子など甘いものが好きでスイーツ男子会をやろうなどと考えていたのに、砂糖を使った甘さを思い浮かべると、むしろ気持ちが悪いという気がするのである。


和三盆の干菓子も以前はとても穏やかな味だと感じていたが、試しに食べてみると、むしろ砂糖のアクの強さのようなものが口に残ってしまう。


ただ甘酒の穏やかな甘さだけが恋しいのである。


この感覚が一時的なものなのかどうかは分からないがちょっと興味深い。







久しぶりにさだまさしの「道化師のソネット」を聞いたら、耳から離れなくなり
繰り返し繰り返し聞いてしまった。


歌詞、メロディ、歌唱が一体となって心も身体も揺さぶられる。


Youtubeの動画は何歳くらいであろうか。


風貌は憂悶する哲学青年にようであるが声の伸びが美しい。



人生の悲しさをじっと見つめ、深く深くその悲しみの底に沈み、一転して希望に向かう…なんと素晴らしい歌だろうか。


悲しんでいる人に頑張りなさいとはいえない。深い悲しみであれば尚更である。その時はただただ共に悲しむということしかできないのだとこの歌から教えられる。


共に悲しみ、そして同じ悲しみの中から希望を見出そうとする…そんな素晴らしい歌である。



この歌は仏教の慈悲の精神にとても近いのではないだろうかと考えさせられた。

慈悲は愛に似ているが愛と同じではない。

「悲」という字にはやはり共に悲しむという気持ちが込められていると思うのである。


お坊さんのための「仏教入門」

お坊さんのための「仏教入門」



数日前に買った正木晃「お坊さんのための仏教入門」の一節「子育ては修行そっくり」を引用する。示唆にとむ内容だと思う。


これについてはいろいろ書きたいことがあるが続きは明日にしたい。



赤ちゃんにとっては、母親から無条件で、このうえなく愛されることが肯定を意味します。母親から叱られることが否定を意味します。この両方の、絶妙なバランスが必要なのです。
子育ては、肯定、否定ばかりでは、うまくいきません。なぜなら、肯定のプロセスばかりで、否定のプロセスがなければ、自我は幼稚なかたちのままで肥大するばかりだからです。ようするに、否定のプロセスをもたない愛は溺愛であって、甘やかされたままでは、自我は幼稚な状態からいつまでたっても抜け出せません。そうなると、やがて我執の虜となりかねません。したがって、母親から叱られることも、赤ちゃんには必要なのです。
しかし、叱れる前に、赤ちゃんは母親から十分に愛されている必要、肯定されている必要があります。十分に愛されていない状態で叱られたら、健常な自我は育たず、主体性ははぐくまれないのです。
 もし、肯定のプロセスがなく、否定のプロセスばかりならば、自我は委縮し、成長していかないからです。委縮して成長を止めた自我は、ちょっとしたことをきっかけに反転して、これまた我執の虜となりかねません。
すぐキレル、すぐ暴力をふるう人の大半は、自我の委縮がもたらす幼児性という特徴を共有しています。からだは大人でも、心は幼児のままという人が、少なからずいるということです。ちなみに、この傾向は、いわゆる頭の良し悪しとはあまり関係がありません。頭が良くても、幼児性がいちじるしい人は、世の中にいくらでもいます。
ですから、自分の子供がそうならないようにと願って、賢い母親は、愛して叱り、叱って愛します。この繰り返しから、赤ちゃんは我執の虜とならず、健常な成長を遂げていくのです。そして主体性をもつ人間に成長していくのです。
考えてみれば、このプロセスは仏道修行とよく似ています。まず菩提心をおこして、悟りという究極の目標に向かって修行するプロセスは、昔からいわれてきたように、肯定と否定の無限の繰り返しです。苦しい修行を積んで、やっと覚ったと思っても、よほどの増上慢でないかぎり、それが本当の悟りではなかったと、すぐわかってしまうのです。しかし、それでおしまい!ではなく、そこから新たな修行が始まるのです。
それはブッダ自身の体験でもありました。ブッダ自身、悟りに至るまでには、数限りない肯定と否定のプロセスが欠かせなかったのです。
 私たちはブッダのように立派ではありません。たとえ仏教を信仰したところで、悟りを開くのは無理かもしれません。しかし、ブッダが生きとし生けるものすべてを救うために、懸命に努力されたのと同じプロセスを、私たちもまた子育てという、誰でも遭遇するプロセスで体験できるのだ!という認識は大事です。
この意味で、仏教は子育ての教科書になると私は思います。



ブログランキ

ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)