祈り 2013.3.11

 


午後は本堂にて震災被災者追悼の読経。




日本中で大勢の方々が黙祷し、祈り、供養し、読経されたことだろう。





残念なことは祈るということを最も力の無い、悲現実的なことだと思っている人が多いことである。



祈っている暇があったら復興のために汗を流したほうが良い…と感じる人もいるかもしれない。



尤も、私も昔はそう考えていたのであまり偉そうなことは言う資格はないのである(苦笑)




復興の為の手を休めてひと時の祈りの時間を持つ…というのは違う。



祈るとは復興することに大きく貢献するものである。



亡くなった方々の心が癒され、今、復興の為に力を尽くしておられる人々に大きな加護を与えるものであるからだ。






祈るとは神聖なる存在と交感することだと何かに書いてあった




少し違うと思う。



別の本にはこう書いてあった。



祈るとは生命(いのち)を宣(の)りだすことだと。



語源として正しいか否かは置くとして、この表現は正しいと感じる。



「宣(の)る」ではなく「宣(の)りい出す」のさらに近い気がするが。



祈るとは自分の中にある神性や仏性を顕現することだと思っている。




つまり、祈るとは外ではなく内に向かうことである。




祈ることは祈ることそのものが目的である。




普通、祈る(拝む)とは叶えたい望みを外なる神や仏にお願いするというところに留まっているのではないだろうか。



祈るとは内に向かうことなのである。或いは内なるものと外なるものの一致というべきかもしれない。







亡くなった他者の為に、供養の為に祈るというのはもちろんあるべきことだ。



祈りによって、亡くなった方の心が仏神に向かう、或いは“そこ”に還る。



そのなかで生前の肉体としての悲しみや苦しみを超えていく。



亡くなって尚続く悲しみや苦しみを超えていく。





この世とは心の世界であると思う。



心はこの世の全てとも、この世を超えた全てともつながっていると思う。




だからこそ祈ることは全ての存在に通じることなのだと思うのである。




全ての人々が祈りの心を持って生きられればどんなに素晴らしいことだろうか。






震災で亡くなった方々の御心が鎮まりますように。




震災で心と身体を傷め、苦しみを抱えて生きる人々が癒されますように。


   

                       合掌



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