心に平安をそして幸福を
本日28日は不動明王様の縁日。
御祈願や御祈祷というのは全く無いことが続くことが在るかと思うとなぜか重なることが多い。
昨日も深刻な御相談が2件。
いずれも御本尊に御健勝を祈念する。
祈祷も祈願も自分の力で何かするというよりは御本尊様に善き縁を結んで頂くということなのだが、それでも相談を受けたことはいつまでも心に残っている。
そういう時の自分の心の処し方が上手くいかなくて、心が鬱々とすることがある。
お寺にいると人の幸せより不幸の相談を受けることが多い。
そして人生の有為転変ということを考えずにはいられない。
不幸が実は次の幸せに繋がっている場合もあるし、
ひとつの不幸を別の不幸につなげてしまうこともある。
塞翁が馬と言われるように、不幸には実は幸福の種が隠れている場合もある。
そして不幸というのはその人のものの考え方で大きくも小さくもなるのではないかという気もする
だが不幸の渦中にあってはなかなかそのことに気がつくだけの心の余裕が持てないというのも事実である。
普段の心をどう治めるかによって出会った不幸が小さくも大きくのなるのではないかという気がする。
いわば心を貯金するとでもいおうか。
では心の貯金とは何かというと結局は自分の普段の心の在り方や言葉と行動の在り方を出来るだけ正しいものにしていくということだと思う。
これは仏教でいう身口意という修行にまっすぐにつながってくる。
物事を丁寧に、確実に行う。
相手への礼儀や感謝を忘れない
物を無駄に捨てない。
掃除をきちんとする、
などなど…であろうか。
最近、地元のMというお医者さんの話を何人かの方から聞いた。
患者に非常に親身にいなって下さる良いお医者さんだ…と皆さんが口を揃えて言われる。
信頼される医師の方が居られて地元で黙々と働いておられることがとても嬉しく感じられた。
全く逆の体験を語られる方もある。
長年にわたって治療を受けているのにただ数値だけを見て薬を処方されるだけで、心に響くものがないという話が実に多い。
私も若い頃、体調の不安を訴えて大きな病院に行ったのだが、殆ど門前払いのように返されたことがあって、その後、ひどく釈然としない思いをしたことがある。
今、改めて思い返せば20年以上も前のことなのに、それを覚えているということは我ながら執念深いというか、器の小ささを見る思いがする。
だが、それは多分、ごく普通の人間の真実の心なのだと納得することにしている。
ひとつの言葉で傷つくことも、傷つけることもあるのが私たちの人生である。
但し、仏教的な因果因縁ということを考えると、たったひとつの言葉であっても相手の心を傷つけてしまえばそれが大きな不幸につながる。
或いは普段から言葉や態度によって相手を癒し、慰めていればその功徳というものは大変に大きいことになる。
あなたに平和が訪れる禅的生活のすすめ―心が安らかになる「気づき」の呼吸法・歩行法・瞑想法
- 作者: ティク・ナットハン,Thich Nhat Hanh,塩原通緒
- 出版社/メーカー: アスペクト
- 発売日: 2005/02
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ダライ・ラマ法王と並んで世界的影響力を持っている禅僧ティク・ナト・ハンの言行録を久しぶりに読んだが、上座部仏教に詳しい友人の話を結びついて興味深かった。
それは何かに「気づく」という心の働きが決定的と言っていいくらい重要なことだということである。
浅学非才を顧みずに言ってしまうなら、仏教の目指す「悟り」という境地は「気付く」という日常的な心の働きと関係しているということである。
「悟り」という究極的な心の在り方が、その方向性において「気付く」というごく普通の心の働きを含んでいるらしいということである。
ティク・ナト・ハンの指導している呼吸法、歩行法、瞑想法には形を変えて常にこの「気付く」という意識の働きが現れる。
「〜に気がついた」というのは私たちはごく日常的に使う言葉だが、実はその中に仏教の真髄と言うべきものが横たわっているのかもしれないということである。
私たちは何か特殊ことに意味を見出しがちである。
特別な真言を唱えたり、印を組むことで何か特別な力が授かったり、不幸が無くなったりということを夢想してしまいがちである。
もちろん秘伝的な伝統は間違いなくあるのだが、私たちが気付くべきは日常を営んでいる意識の在り方だということである。
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