春らんまんと天然でんねん 

【鹿原公園のレンギョウ





当地の桜も満開の様子。




医療センターや与保呂川など市内にいくつか桜の名所があるが、
どこも多くの人出で賑わっているようである。



境内の向かいの鹿原公園にも花見の方がこられるようになった。




関西の方は“自分の面白さ”に自信を持っている人が結構おられる(笑)




ただ個人的には一番面白いのは天然だ…と思う。




その人の素の部分、素直な所作や思いからくる可笑しさというのは素敵だと思う。





もちろんよく練られた笑いというのも好きだし、大事だと思うが、
天然の笑いというのが一番好きである。







先日、最近御主人を亡くされたという女性にお逢いした。




若くして亡くなった御主人がこのお寺に愛着を持っていて下さったとのことで、
お墓参りのついでに寄って下さったのである。







持ち前の明るさで、御主人との思い出、闘病生活をお話される。




何とも言えない明るく、大らかな方なので、何度も笑ってしまいながらその方のお話に聞き入った。






まっすぐな気性の方なので御主人と時にはぶつかったり、ケンカされたこともあったという。



だが、どんなにケンカしても、この女性に穏やかな愛情を注がれる御主人の御姿が眼に浮かんだ。





その方は御主人を亡くされてからいろんなものに感謝できるようになったと言われた。




ご飯が食べられること、家族の居ること、部屋に温かい陽の射すこと…



それまで何でもないことだと思っていたことが、とても有難く思えるのだという。




お話を聞きながら、関東大震災のことを想い出した。




巨大な震災と津波によって、大勢の方が一瞬のうちに家族を亡くされ、
住み慣れた家を無くされた。



そのことを眼の辺りにして感じられたのは普段、
当り前に思っていることが実はとても有難いのだということである。




家族が居るのは有難い。





住み慣れた家があることは有難い。







(私も含めてだが)自分の家族や住んでいる家に常に感謝している人は少ないだろう。




どちらかというと不平や不満があるものである。




だが、真実の眼で見るなら、家族の在ること、家が在ることというのは
圧倒的な存在感を以って私たちを支えているのである。




震災後、絆や家族の大切さが人々の意識に登るようになった。




そのことは、この巨大な災禍によって、私たちが実は人と人のつながり無しには生きていられないことをまざまざと自覚できるようになったからではないだろうか。



その方は御主人を亡くされたことで、普段在るものの有難さに気付かれたのだ、
素晴らしいことだ…




…と私は言おうとした…はずなのだが




私の口から出たのは




「御主人があなたに感謝されていて、それがあなたに伝わっているんですよ」




という言葉だった。



暫く、自然に会話が続いたのだが、ふと…




自分はなぜあんなことを言ったのか…と会話を続けながら疑問に思った。




亡くなった御主人の温かな眼差しが今もこの方に降り注がれていて、
それが私の口から出たような気がした。




そんな妄想が頭をよぎった。





いつの間にか長々と話しをしていたが山門まで、この女性をお送りした。




山門の前の桜も満開だった。





少し陽が傾いていたが、陽春の暖かさを感じられた。




この明るく、素敵な奥様を感謝の思いで見つめておられる御主人の眼差しのように感じた。




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