ホタル狩 悲しみを埋めるもの
先日、ホタル狩の話を書いたら、地元の御住職がホタルの沢山いるポイントを教えて下さった。
日が暮れてから娘とホタル狩にでかけた。
見当をつけて教えて頂いた辺りに行くと、護岸工事をしていないらしい、広い河川敷があって川に沿って20匹ほどのホタルが乱舞していた。。
川に沿って、水平移動していくので軌跡が長く、流れるように光の点が続いていく。
普段見ているホタルより光が強い気がした。
路肩に車を止めていたら、近くの民家から兄妹らしい小学生が出てきて、一生懸命にホタルのことを説明してくれた。
昔は大勢居た、人懐っこく、邪気の無い子供達であった。
大きな悲しみについては寄り沿うことが大切ではないか…と書いたらいろんな方に(多分)共感して頂けたように思う。
キリスト教では葬儀が終われば故人を偲ぶ機会は無いようである。つまり法事に該当するものが無いようなのである。
仏教では49日の期間に何度も逮夜があり百箇日を経て年忌法要が続く。
逮夜もかっては七日ごとに親族や地域の方が集まった。
当地でもまだ一部の地域にその慣習が受け継がれている。
親族を失って大きな悲しみを抱いた方にとって七日ごとに人々が集まるというのは大きな慰めになったのではなかったか。
寄り沿うということ、共に居るという行為はとても重要であろう。
悲しみや寂しさとはそこに在った存在が虚となった感覚であろうか。
人が居なくなったことによる空虚な感覚を別の人が存在することで埋めることができるのだろうか。
葬儀と法事の一連の行為は悲しみや喪失感を埋める大きな役割を果たしてきたのではないかと感じる。
逆にいえば、そのような役割を果たせたからこそ仏教は脈々と受け継がれてきたのではないだろうか。
仏事を簡素にする、極端な場合、葬儀すら行わないということは喪失感を埋め、悲しみを癒してくれるはずのものも失っているのではないだろうか。
昔の日本人は嬉しいにつけ、悲しいにつけ寄り合うってきた。
その寄り合うという関係性がどんどん失われつつあることではないかという気がする。
(ネットに傾注する人々の中には多分、寂しいという感覚があるのではないだろうか。)
アメリカでは喪失感がもたらす悲嘆をやわらげることを“グリーフケア”と呼ぶ。
こういう外来語を喜んで使う人がいるが、日本の仏事は立派なグリーフケアの体系を備えているといえるだろう。
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