梅ジャムの季節  般若心経とドーパミン

今年も梅が沢山採れたので奥様が梅ジャムを作りました。









添加物の入った氷菓やアイスクリームを食べたくないので密林にてかき氷機を購入。


【白クマが汗かいてがんばってくれています】



家族約1名に大好評です…





真言というのはサンスクリット語なので聞いて日本人が聞いても分からない言葉である。



真言の大半は仏への帰依を表す言葉であり、訳語としての意味は知っていても真言の言語としての意味を把握している訳ではない。




昔は原典の音読、素読、暗誦が学習の正道であった。



戦後、意味が分かったほうがいい、簡単なほうがいいという風潮ができた。


その流れの影響だと思うが、お経も意味が分かったほうがいいというので、
現代語訳のお経を読むという試みもあるが、お経はあくまでお経として読経し、その意味については法話などで説明するのが良いのではないかと思う。



そして言葉の意味は理解できなくても、一生懸命読経すれば故人にも生者にも伝わるものがあるのではないかと思う。



意味が分からない言葉(意味の無い音)は情報分析の枠外の音として脳の深部に達するのではないか…



真言宗豊山派安養院住職の仙田陽高師が「寺門興隆」(2013年7月号)に「わけの分からぬお経を聞くわけ」と題して寄稿しておられる。




脳というのは古い脳の上に新しい脳が発達している。


古い地層の上に新しい地層が堆積しているようである。。


人間の心もまた顕在意識と深層意識の間に階層的な隔たりがあるようである。



言語解釈を超えた音を聞くとそれが古い脳や意識の深層にダイレクトに伝わるのではないかという指摘の後、以下のような内容が続く。


『澄んだ夜明けの空に響く梵鐘の「ボーン」を聞いて大悟した白隠禅師、竹にあたった小石の「カーン」で悟った香厳禅師、ほかにも一休禅師のカラス「カー」や蘇東坡居士の谷川の瀬音「サラサラ」や雨滴声、音が悟りの契機となった逸話は快挙に暇がない。内側奥深く入った響きは、広大な外部へと開いてゆくのかも?
 ムソルグスキーらのロシアの作曲家の音楽には、プロテスタントの合理主義とは一線を画し、儀礼霊性を重んずるロシア正教の精神である「魂の全体性」が流れている、という人もいます。音は全一性へととどく、という直感でしょうか。
 脳の話をもうすこし。音楽を聞くとドーパミンが放出されることが分かってきました。ドーパミンとは「アガる感じ」だとしておきます。その神経伝達物質は、おなじみのフレーズがつづいたあとに予測を裏切るサプライズがおこった時にドンとアガるらしいのです。
なるほど、授業で『般若心経』を教わった子どもたちが、休み時間に「ギャーテーギャーテー」とさけびだす理由が分かりました。漢字音の羅列のあと、いきなりサンスクリット語の呪文が飛び出すのだから、小さな頭はドーパミンでいっぱいになるはずです。
 忘れてはいけないのは、お経を聞いている存在はほかにもいるということ。そう「故人」です。それはお経を声にすること、聞くことで、そこに故人が立ち上がってくるという、逆のプロセスで展開されるまことに不思議な体験です。響くことで世界が生まれる。なにをかくそう私は読経の際、遷化された師が一緒に読経してくださるように感じることがよくあるのです。』
                 
             仙田陽高「わけの分からぬお経を聞くわけ」


般若心経を学んだ子供なら誰でも「ギャーテーギャーテー…」のフレーズに惹かれるが、そんな秘密があったとは。



この部分を「行こう、行こう…」と訳された方がある。

これもお経の現代語訳の試みのひとつだがやっぱり「ギャーテーギャーテー…」のほうがしっくりくる。


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