それは他人のなかにあった

【花日記】

アジサイは盛りを過ぎたもの、

ギボシ咲き始める。



ようやく施餓鬼の準備で塔婆の裏書を始める。



相変わらず取り掛かりが遅い。



連日、かなりの猛暑。お盆が思いやられる…




人生という旅

人生という旅



寺門興隆」(2013年7月号)に作家の小檜山博氏が「それは他人のなかにあった」というエッセイを寄稿されている。


若いころは死ぬのが恐ろしかった。脳味噌の量の少ないぼくは二十歳代、まず女にもてたかった。おカネもほしい、小説家にもなりたいと思った。どれもこれも駄目で、そのうち何でもいいから有名になりたいとまで思ったものだ。
 欲望まみれの無残な醜さだった。
 そして七十歳を過ぎたいまは欲望がひとつひとつ消えていって、老いを美しいと思う。


時々、ふと自分の中に欲望がふつふつとわいてくるのを感じる。


欲望に中に生きているのかもしれない。


まだ私が老いを自覚するにはまだ少し時間がかかるのだろう。







この後半に深甚なエピソードが記されていて印象に残ったので、引用してみたい。



いまから六十年前でぼくは十六歳の高校生だった。実家から遠く離れた苫小牧工業高校の寄宿舎に入り、父母からの少ない仕送りで生活していた。寮生は六十八人おり、ぼくらの部屋は四人部屋だった。 
 全員が自炊で、自分で米や麦を買い七輪に木炭で火をおこして飯を炊き、味噌汁を作った。貧乏なぼくは麦しか買えず麦だけ食べ、味噌汁も豆腐など買えないため湯に味噌だけ溶かしたのを飲んだ。おかずもなかった。
 月末になると十円のおカネもなくなり、ぼくは深夜、部屋の三人と近くの農家の畑へ行って、ジャガイモやカボチャを盗んできて煮て食べた。おいしかった。しかし寮生五十人ぐらいが盗むのだから、その農家の被害は大変なものだったはずだ。しかし馬鹿なぼくらはばれないのをいいことに盗みつづけ、三年いて卒業した。
 ぼくは北海道新聞社に勤めて東京支社の編集局に十年間勤務した。勤めながら小説を書き、札幌へ戻って三十九歳のとき「出刃」が芥川賞の候補になって小説書きになる。
 高校を卒業して五十年たったある日、地方都市から講演を頼まれて出向いた。仕事が終ったあとの聴講者との会食の席で、六十三歳になるという女性に話かけられた。
 彼女はぼくが高校生のときいた寄宿舎の裏にあったあの農家の娘さんで、当時は十三歳の中学生だったという。ぼくは緊張した。彼女は笑いながら「父はあるとき、野菜を盗むのが苫小牧工業高校の寮生だとわかって怒り狂い、校長先生と舎監のところへ抗議に行こうとしたんです。そのとき母が『父ちゃん、行くのやめときな。あそこの子たち腹すかせてるんだから仕方ないよ。来年から余計に作ればいいでしょ、盗んでってもいいように』と言ったんです。そしたら父は一瞬びっくりした顔をして母の顔を見ましたが、何も言わずに家の中へ戻ってきました」
 そして次の年から両親はジャガイモもカボチャもトウモロコシもたくさん作りだしたんです」と言った。
 彼女の話を聞き終え、六十八歳のぼくは茫然として天をあおいだ。なんということか。ぼくは農家出身なのに農家のことなど何ひとつ考えず、自分の空腹のことしか頭になかったのだ。馬鹿だったのだ。
 それなのにあの農家のご夫婦は、ぼくが盗むぶんまでよけいに作ってくれたというのだ。そのことを五十年間も知らずにきたのだった。
 ぼくは息を詰めて顔を伏せ、低く呻いた。そのとき一瞬ぼくのかなに、これまで感じたことのない豊かで温かな、泣きたいような気持ちの波立ちが生まれるを感じた。
 ぼくが知らないところで、ぼくを生かしてくれているものがある。
 神仏は自分の心のなかにいると聞いていたが、ぼくの場合、それは他人の心のなかにあった。
 








私達は自分で生きているという自覚で頭をいっぱいして生きている。


私もいつかその夢から覚めることができるか。


浅き夢みじゑひもせず…


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