敵に出合ったら



【シュウカイドウ(白)の葉が鹿の食害に逢う…無念。】




本日も蒸し暑い一日。



法務3件。面談2件。




年忌法事の後、離れた場所にあるお墓に歩いて向かっていると雨が降り始め、まもなく土砂降りに…





法務の最後はお墓の開眼。



お墓の前でカバンから散杖という儀式用の棒を取り出そうとしたら…カバンの中でポッキリ折れていた。



かなり太いものなのに何ゆえ折れたかは不明。



私の心も折れそうになりました…







夕方にかけて時々雨が降る。



乾いていた地面も少し息を吹き返したようである。











『敵と思えるような相手に出会ったら、それを忍耐や寛容を与える修行だと考えてみてください。
そのように考えると、敵は私たちの師であり、先生だといえます。
敵はとてもありがたい存在なのです。
人生の苦しい時期は、有益な経験を得て内面を強くする最高の機会なのですから』
       法王ダライ・ラマ14世の言葉



含蓄のある言葉だと思う。



「敵」という言葉を「うまくいかない相手」と言い換えてもいいかもしれない。



あるいは「人生のうまくいかない出来事」と言い換えてもいいかもしれない。





自分の人生を振りかえってみると、うまくいかない時があったこと、そのことで随分と人生の幅が広がった気がする。




当時はただ不愉快でしかなかった相手が、実は自分のもっとも大きな欠点を指摘してくれていたことに気がついたこともある。



損得とか快不快だけで相手や出来事を判断していては必ず人生を誤る…というのは自分自身のかなり痛切な体験から得た教訓である。





もうひとついえることは、うまくいっている時こそ危ういかもしれないということである。



この仕事についているとほめてもらったり、在り難がって頂く機会が多い。



「良いお経でした」「在り難いお話でした」「立派なお声でした」…



だが相手の言辞をそのままに受けとってうかうかしていると危ういな…と思うことが時々ある。




自分のこれまでを振り返ってみるとそんな言葉を真に受けていたな…と冷や汗がでる思いがすることがある。




毀誉褒貶に心を揺らさないというのは難しいことだが、自分の長い人生から単なる幸福だけでなく人生のもっと深い何かに触れたいと思うなら心がけないといけないことだと思う。



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