無線式キーボード SLOWなピザ 聖と俗の間






駅前のホテルの1回にイタリアンのお店ができたので、知り合いのお坊さんと出かけた。


名目はお盆の反省会。


待ち合わせの時間に駅前にできたケーズ電機を覗く。



欲しかった無線式のキーボードがあったので買ってしまう。


開店記念価格で定価の半額…みたいな表示があったが、
帰ってから密林で調べたら密林のほうが安かったのでちょっとがっかり。



どういうことよ!


ノートパソコンを机上台に置き、画面が水平に近い状態で見れるようになったので具合が良い。



長時間パソコンを使っていると眼精疲労や独特の脳の疲労感がある。


特に最近ダラダラとネットを観ている時間があり、自分でも要注意だと自省している。


この配置にしてからパソコンの前に座る時間が短くなって気がする。






駅前のイタリアンは「SLOW」というお店でピザが美味しかった。


多分、焼き釜が特別なのだろう、もっちりした生地に焦げ目がついていて、この焦げ目が美味しい。


ちょうど炭火で餅を焼くと、焦げ目に味があるがそんな感じである。







先日、車で1時間ほど離れたところにあるお寺に出かけた。


ご住職は托鉢に出かけてお留守だったので留守番をされていたお弟子さんと少しお話して帰ってきた。


山門を潜って、お寺の玄関までは20メートルほどだろうか、石畳が蛇行して玄関まで続いている。


広い庭が綺麗に掃き清められていて、そして何かが伝わってきた。


甘えや隙がない…そんな感じだろうか。


身が引き締まった。


ご住職にはお逢いできなかったが、山門からの小径を歩いただけで半ば目的は果たせていたように感じた。



このお寺のご住職にお逢いしたのはまだ2回だが、まっすぐに生きておられるという印象である。



逆に言うなら自分自身が妥協や甘えにどっぷりつかっているかということになる。



このお寺を訪れ、ご住職にお逢いすると粛々とした気持ちになる。



それでいてこのご住職が温顔を絶やさず、自身の厳しい修行については一言半句も誇ったりする様子がない。


時々、懐かしいような気持ちになってお顔を見たくなる。




本山での修行を終えて自分のお寺に帰ってもうじき10年が経とうとしている。




その時々、いろんなことで心を一杯にしていたが、
どれほどの向上があったかと省みるとひどく心もとない。



最近、考えるのは<聖と俗>ということ。



一見、信仰に関係のないことでも自分のなかに聖の意識をもって行えば聖になるし、
本来、聖の行為であっても俗の心をもって行えば俗に堕してしまう。



私たちは外見で聖と俗を見分けてしまう。




煩悩即菩提ということもそのことと無縁ではないだろう。


その反対は菩提即煩悩。これはある意味とても怖い。




私の心はいつも聖と俗の間を往還してやまない。



いつか一処におちつくことがあるのだろうか。






ブログランキ

ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)






.