芭蕉は確信犯か 迷うがゆえか 

日本語では「城」という言葉は城郭を指すが


漢詩ではかなり意味が違う


杜甫の名詩「春望」の冒頭


国破れて山河あり
城春にして草木深し


この「城」は城郭ではない


「町」や「都」などと訳されることもある。


ご存知と思うが中国の都市には城壁で囲まれたものが多い、そういう(城壁で囲われたような)都市を指しているようである。


芭蕉の名句


夏草や兵どものが夢のあと



この句は芭蕉奥州藤原氏が栄華を極めた平泉で詠んだものである。


この名句は詞書に先の「春望」を引用してふまえて詠まれた歌でもある


だが…


この時芭蕉は「城」を「城郭」と捉えていたのか、それとも「都市」と捉えていたのか…




「国敗れて」とあれば自動的に荒城の風情を連想するのも止む終えまい。



そう考えるとちょっと面白い。


芭蕉は確信犯的に都市ではなく城(荒城)と読み代えてこの句を詠んだのか…



それとも芭蕉の「城」への認識不足が逆にこの名句を生んだのか…



どうなんでしょうかね…



奥の細道

奥の細道




迷故三界城
悟故十方空
本来無東西
何処有南北


この句は現在でもお葬式の笠袋に書かれることが多い


本来は四国のお遍路さんの菅笠に書かれたことに由来するという。


最初の一句だ「が迷いがあるので三界は城のように堅固である」


と長らく解していたがどうも違うらしい。




『三界城を出て、一切智城に入る』



と書かれた経典があるらしい(「華厳経」?)



この場合、「三界城」や「一切智城」の「城」は<領域><領界>くらいの意味であるようだ。


従って「迷故三界城」という句は「迷いがあるから三界が堅固になる」ではなく「迷いがあるから三界があるのだ」というくらいの意味に解するのが適当なようだ。


三界とは「欲界」「色界」「無色界」の3つの世界を指し迷いの世界とされる、端折って言えば三界とは迷いの世界そのものを指す。


ただ2句目との照応を考えると

迷故⇔悟故

はいいとして、

三界城⇔十方空


のほうは

『三界が城になる』

『十方が空になる』

という解釈のほうが綺麗に照応する。

すなわち「三界城」をひとつのタームにしてしまうと、
「十方空」というタームも無いとおかしいことになるからである。


……


尤も言葉の世界そのものも迷宮のようなものかもしれない。



迷故三界城…


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