熊2台風1 聖と俗のあいだで


昨夕は行政からの災害関連のメールが続々着信。



そのうち市の広報車が盛んに巡回しはじめたので、てっきり避難所の案内かと思って


耳を澄ますと…



「…近所で…熊が2頭目撃されました…注意して下さい」


……熊2頭って確かに聞きました……



そういえば昼間、あまり見慣れない形の柿の食べ残しが道路に落ちていたのを思いだした。


猿の食べ方と少し違うな…と気になっていたのだが。


日が暮れてから老僧が薪を取りに外に出ようとしたので、
「熊がいるよ。気をつけて!」といったら…



「境内の奥に大きな熊の○ンコがあるからね」といささかも動じない。


熊というのは境内に生息する熊のことだったのか…


妻にも「熊に気をつけて」と言ったら…


「向かいの鹿原公園によく大きな○ンコが落ちてるわよ」と涼しい顔して言う。



熊に危機感のあるのは私だけでした…


しかも2人とも○ンコって…




文・堺雅人2 すこやかな日々

文・堺雅人2 すこやかな日々



台風一過であるが、依然雨が続く。


今回の台風は稀に見る大型だったようで、当地より遥かを彼方を通過したにも関わらず、雨風もかなり激しかった。夜9時をまわってもかなり雨足が強い。





本日は雨の中、関東のC社による仏像鑑賞ツアーのバスが1台。


首都圏から新幹線とバスを使って丹後・小浜の仏像を拝観するツアーが人気である。


1回あたりの人数は15人から20人と少なめだが、年に10回以上行われている。


京都・奈良と違ってこのアクセスの悪いこの地域はこうしたツアーに人気が集まる。


本日は小浜に1泊して明日は市内のお寺を周るとのこと。




京の神社仏閣のすごいところは
「聖と俗の絶妙なバランス」
ではないかと、僕は思う。
大徳寺建仁寺といったおおきな禅寺は、そのひろい敷地のなかに、塔頭とよばれる、いくつもの分院をもっている。お金をはらって入場できる塔頭もあれば、非公開のところもおおい。一般人が入れないのは、もちろんのことそこが修行の場であるためだ。
すべての塔頭をとざしてしまえば、修行はしやすくなるだろうが、観光地としてなりたたない。一方、どんなに立派なな建物でも、そこでいのり、まなぶヒトビトがいなければ、宗教施設としての生命はたたれてしまうにちがいない。こうした大寺は、
「プライベートな塔頭」と
「オープンな塔頭
をうまいぐあいに配置して、信仰と観光のバランスをとろうとしているようにおもえる。



          「演じる京都」<堺雅人「文・堺雅人2すこやかな日々」



京都に聖と俗のバランスがあるというのは面白い見方だと思う。


多分、宗教には常にこの問題が付きまとう。


間口の広さと奥行きの深さと言い換えることができるかもしれない。



宗教を大勢の人に門戸を開くということは、人を選択し、ふるいにかけ、極少数の人々だけが厳しい修行を積む世界とは対極のように思える。


お寺は仏像を見に来るところではない、礼拝するところだといってしまうことは簡単だが、どんな形であれお寺に来たいという人は大事にすべきだと思う。


仏教では法を聞く「聞法」から入って、次に法について考える「思法」、そして本格的な修行に進むとされるが、お寺に来たいというモチベーションを持っている人々をいかに聞法に引き入れるというのは大きな課題である。


そして「修行」とされるもののひとつは俗に交わることであると思う。
ただし俗と交わって俗に染まらぬという厳しい条件がつきまとう。



いつも俗に染まってしまう私には大口をたたく資格は無いのだが…


このことは案外、山にこもったり、滝に打たれるより厳しく、難しいのではないかと思ってしまう。


宗教にとっては俗性と聖性のどちらもが必要なのだろう。


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