節分法要 密教の醍醐味 となりのトトロ

本堂にて10時より節分祈願法要が行われた。朝方は暖かく感じるくらい気温が上がった。


節分の法要はお盆の施餓鬼法要と並ぶ節目の法要である。


本堂に参集されたのは50人ほどだったがこじんまりじた本堂にはちょうど良いくらいの人数である。


最初に世話人に方がおぜんざいのお接待の案内をする時に…


「お寺からの『お・も・て・な・し』があります」


と言われてちょっとウケてました。



午後は助法に来てくださった真言寺院に助法へ。


法要というのは《法》にふれてもらうことが大切なのだが


準備であったり、お接待であったり、お手伝いに来てくださる方々への応対などその他もろもろに心を忙しくしてしまい、《法》の部分への集中が疎かになることがある。




真摯な願いは必ず神仏に届くが、それを中立ちするものとして責任の重さのようなものを年々感じるばかりである。



参拝された方の大半は地元の方だったが、遠方から来てくださった方、今年初めて来てくださった方もあり楽しくお話することができました。



仏様には様々なものが捧げられる。



口を漱ぐ水、足を洗う水、飲み物、食べ物、綺麗な音、香り…


それも『おもてなし』といえなくもない。


それらによって仏様を迎え、その仏様に真摯に願いを捧げ、そしてまたお帰り頂くというプロセスが大切なのである。



いろんな書物には仏様の供物に酥(そ)というものがでてくる。


何かに「バター状の乳油」と書かれてあったので…


今年は本尊への供物の中にバターを加えてみました…


この酥を精製したものがサルピス・マンダという物質で日本語訳では「醍醐」である。




真言宗八祖の一人である善無畏はま「大日経疏」第四巻の中でマンダラの修法を「牛乳を攪拌し、酥を作るようなもの」と記しているそうである。



以前にも書いたが酥や醍醐というのは単なる供物というより
密教の最重要の部分と本質的なアナロジーを持っているらしい。


「精製すること」「火を加えること」に加えてどうも

「攪拌する」という運動性が何か意味があるらしいのである。


護摩を焚く際に雑和(「ぞうわ」「ざわ」)といって供物を混交する所作があるか、どうもこのことと関係があるのではないかと感じる。


いつもの妄想だが…



本日にて年末年始からの一連の法務はほぼ終了である。


まだ法務の内容が頭の中をぐるぐる回っています…そこから何かは生まれそうにありませんが。


とりあえず今晩はyoutubeで一服します。


【重厚かつ軽妙。音が何かを語りはじめるのを感じることができます。異質なものを混交するところから何かが生まれる…】


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