密教の大いなる楽しみ 猫の催眠術

佐村河内守:交響曲第1番 HIROSHIMA

佐村河内守:交響曲第1番 HIROSHIMA


納得いかん…



「現代のベートーベン」こと佐村河内氏の作品がゴーストライターによるものだったという報道はどういうことなんでしょうか。


NHKの特集も金スマの特集も見て感動していた私としてはすごく釈然としません(苦笑)


NHKはもう一度あの番組を再放送して検証してほしい。


それにしても…


何だかなあ…(モヤモヤ)


【関連記事】http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/samuragouchi_mamoru/?id=6106352


読んで深まる、書いて堪能する「般若理趣経」

読んで深まる、書いて堪能する「般若理趣経」


脳トレーニングを加味した大判の本が数多く出版されている。


仏教関係でも同種の本は「般若心経」をはじめかなりの冊数が刊行されている。


先日、ブックオフオンライン「読んで深まる、書いて堪能する般若理趣経」を購入。


約100ページが理趣経の解説と現代語訳である。


気鋭の密教研究家である正木晃氏の解説が示唆に富む。



(尚、実際の写経は序説、初段、百字偈のみ。)




仏教にはその出発点において世俗を離れるという方向性があったが、
密教には俗性や肉体性を肯定し聖性に転じるという側面がある。




6世紀のインドは非常に豊かな時代で農業生産が飛躍的に拡大し、
西方との海上貿易によって都市には莫大な富が蓄積されたらしい。



インドが繁栄を享受するなかで、世俗を離れることだけでなく、世俗性や快楽性を肯定し、それらを仏道修行に取り込もうと考えたのは大変面白いことだと思う。



現代は物質的豊かさを享受しているが、密教が人間の欲望を始めとする俗性や“生命”の存在性を大胆に肯定していることは、ある意味、現代文明が直面している課題に何か大切な示唆をもたらしてくれのではないかと考えている。




4世紀にまとめられた「華厳教」では善財童子が53人の師を巡る。


その中には様々な階層の人々がいて遊女、船頭、商人などまで含まれている。
(この53という数字が東海道五十三次に影響を与えたらしい)



このことは4世紀以前に必ずしも身分の高くない在俗の人々の中に仏教を高い水準で理解し、実践しうる人々が出現していたことを示しているのではないだろうか。


そのことが後に本格的に密教が発展することとも大いに関係してくるのではないかと私は考えるのだが…


閑話休題


真言密教で最も重用される経典は「大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜理趣品」である。


実に長い名称…


普通は「理趣経」(「般若理趣経」)と呼ばれる。
7世紀頃成立したとされる経典である。



真言宗では葬儀、法事、法要などの重要な場面では必ずといっていいほど「理趣経」が読誦される。



地域によってはこの経典を一巻読んでお葬式とする場合もある。


理趣経」の本編は17のチャプターに分かれている。



最初のチャプターである「初段」の前に「序説」が付されているが、「理趣経」の中核はこの「序説」と「初段」、それから「理趣経」全体を100字に要約した「百字偈」(ひゃくじのげ)であるとされる。


多くの経典では中心的な仏が存在し、集会した多くの仏達に教説を語るという構成になっている。(お経の本来の形は釈尊の説法なので当然だろう)


序説の語り手は大日如来であり、語る場所は<欲界>という世界である。


仏教の世界観には様々な世界があるとされる(ちょうどパラレルワールドみたいに)
その中の<欲界>というのは人間の欲望がある世界である。


ここは大きなポイントではないだろうか。


大日如来が教説を語るのは清浄な世界ではなく、人間が欲望をもった世界なのである。


このことは理趣経の思想の中核と直結している。


初段以降に俗性や快楽性も高い境地からみれば清浄であるという思想が語られるが、


この序説では大日如来が欲界で語ることそのものによってその思想が示されている。


さらに…



大日如来は欲界のなかで教説を語るが、語る場所は壮大華麗な宮殿である。



ここにも特別な含意があるような気がする。



この宮殿は宝石によって荘厳されているのである。



宝石がちりばめられ、わずかな風によっての宝石がゆらぎ、共鳴し合っている。
美しい宝石の表面には周囲の宝石が写りこんでいる。


様々な種類の宝石がちりばめられ、黄金の鈴、宝石の風鐸、絹のカーテンがかけられ風が吹くたびに揺動して妙なる音を奏でる。




以前は教説を演出する華麗でビジュアルなイメージの描写として読んでいただけなのだが


この<宝石造りの宮殿>の存在そのものが繰り返し語られる<金剛>を表しているのではないかという気がする。


金剛とはブッダの教えである。絶対に壊れず、永遠不朽の輝きを放っている。もちろん宝石自体も金剛を象徴しているのは明らかであろう。




その金剛の世界が同時に、常に揺らぎを持った世界であるということにも興味を惹かれる。


そして一即一切、重々無尽の関係性や相互性を持っているのである。


空海が即心成仏を述べた中で「重々帝網」という言葉が出てくる。


帝釈天の宮殿に散りばめられた宝石がお互いにお互いを映し出しているという姿である。


(初段の説かれる欲界の最上の世界だが帝釈天のいるのはもう少し階層が下の世界である。ここらへんのつながりはいまひとつよくわからない)



このあたりは理趣経の説く思想と具体的イメージが交錯して正に重々無尽の観がある。




大勢の方に密教を知って頂きたいと思いつつ、自分自身の理解もままならないが、こうした優れた解説に出会えた時は格別に嬉しいものである。ささやかな“大楽”というべきか。


【オマケ】



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