桜 同行二人 TO BE
本日も好天。風は昨日よりずっと暖かい気がした。
与保呂川沿いの桜並木も満開に近づきつつあった。
桜を見ていたら、少し前の法事のことを思いだした。
法事の後段では参列者にお焼香をして頂く。
私は仏壇の正面の席を外して、
読経しながら見るとはなしに参列者に眼をやっていた。
亡くなった女性の御主人と、その方の弟さんのお焼香が眼に入ったときに、なぜか似ているという印象を受けた。
年齢も違えば、血縁も無い2人がなぜ似ているのか…と考えて、この2人から伝わってくる情緒のようなものが似ているのだと気がついた。
男の情とでもいうのか…故人への愛惜の感情も大人と子供でも違うが、男性と女性でも違う。
この2人から男性としての愛惜の情が刻々と感じられた。
それはとても重く、しんみりとしてた。
決して女性の愛惜が軽いとか弱いというのではないが、やはり男性の悲しいという感情には独特のものがあるといつも思う。
日本人の男性の多くが女性に対して直截な感情の表現はしないが、その背後にはやはり深い情緒のようなものがあると感じる。
そのことが女性にはなかなか伝わらないのが残念に思う。
桜を見ながらそんなことを考えた。
さまざまのこと思いだす桜かな 芭蕉
出先で古い友人に会ったら共通の友人が胃潰瘍だと知らされた。
共通の友人というのはいつも一生懸命で、何事にも前向きなのだが、私は以前に
もうちょっと体の声を聞いてあげたほうがいいよ…と言ったことがある。
その友人がこれまで経験した様々な病気は体からその人へのメッセージのような気がしてならなかったのである。
私という意識と私の体には乖離がある。
その乖離にも個人差があるように思う。
私のように怠惰の衣をまとっている人間と違って、世の中には何事にもがむしゃらな人というのがある。
そうしたタイプの多くが社会的に評価されたり、経済的に恵まれるのは当然としても、
そういった人たちの病気というのは体からのメッセージではないかと思うことがある。
私というのは実は体と心のの二人三脚なのではないだろうか。
心も体もお互いの声を聴きあって前に進めたら一番いいと思うのだがなかなか難しい。
ただ最近に日本人を見ていると体と心の他に頭という要素が入っている気がする。
食べたくなくても三食食べるものだと思って食事をしたり、
建前や義務感のようなものに縛られている人を時々みかける。
パソコンや携帯電話は便利だがその反面、間断なく外部から情報が入ってくる。
情報の過多や豊富は必ずしも人間を幸福にしないのかもしれないと思うこともある。
人間は心を体と頭の三人四脚なのだろうか…
と考えて見ると、もうひとつ魂という要素があることに気がついた。
これに触れると長くなるので今日はこの辺にしておこう。
急に浜崎あゆみの“to be”という曲が聞きたくなってyoutubeを検索した。
頭も盛り盛りしてるしキャバい感じだけど、1番の歌詞で丁寧に歌っている感じがとてもいい。ダンサーの踊りは余分かな…
ギター奏者が私達の世代には懐かしい往年のアイドルだったのでちょっと驚いた。(6:30&7:19)
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