あの頃の戻りたいと思うこと
本日は霊場会の運営会議で大阪へ。
10月に大阪の国際会議場で高野山の開創1200年に関連した華道展がありその一角で花の寺の企画展を行うことになったので、ここ数ヶ月毎月会議が行われている。
霊場会のプロモーションビデオを作製して会場で放映することになっていたのだが
プロジェクターなどの機材のレンタル料金が予想以上の高額(数十万円!)であることが判明。
他にも搬入や設置などなど全てに経費がかかる…
いろいろ調べて国際会議場の機材をレンタルできることが判明しなんとか予算内で企画展を行える見通しになった。
本番は10月23、24日なのでお近くの方は足をお運び頂きたい。
本日の会議で今月前半の1ダースほどの案件がようやく終了。
今月ももう半ばになろうとしているが、山寺に居たのは3日である。なかなか忙しい上旬であった。
帰りの高速バスのなかで先日の花祭りのことを思い出した。
毎年のことだが、子供達が花祭りの歌を歌うのを見ると胸がジーンとしてくる。
無心に、大きな口を開けて謳う子供達を見ていると胸が熱くなるのである。
自分もまた同じように、この歌を唱っていたことを思い出す。
私が通っていたのは京都市内にあるお寺の運営する幼稚園だった。
住職の改良服は今から思えば浄土真宗系のものだったことに思い至った。
おそらくそのことと関係があるのだろうが、京都市内にある浄土真宗の大本山の息子が同級生だった。
一度だけ先方の家に遊びに行ったことがある。
その家がまるでお城のようだった記憶がある。
優しかった園長先生や保母さん達の面影をかすかに思い出した。
子供の頃、大好きな友達がいて、父や母やに大事にはぐくんでもらった記憶が、今の私を支えてくれているのではないかと思うことがある。
宗教のひとつの境地というのは幼い子供のようになることだと思う。
幼い子供のように無心に、純粋に、優しく、深い感性のなかで生きることである。
幼い頃、父や母に無心にすがったように神や仏に自分をゆだねられないものだろうか。
誰しもが人生のある時期、そういう体験をしたということは、もしかしたらまたそのようになれるというひとつの根拠のようなものなのかもしれないと思うのである。
のんの ののさま ほとけさま
わたしのすきな かあさまの
おむねのように やんわりと
だかれてみたい ほとけさま
のんの ののさま ほとけさま
わたしのすきな とうさまの
おててのように しっかりと
すがってみたい ほとけさま
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