野生のフォルム  神を越える存在

昨日は久しぶりに猿の群れがやってきた。


境内をうろうろして目ざとく栗の木に登り始めたので、思い切り怒鳴ったらしぶしぶという感じで山に帰っていった。



猿は相手が女子供だと見ると逆に威嚇してくるからタチが悪い。



猿もそうだが、鹿も、野ウサギも、野生の動物を見かける時にいつも感じるのは、その肢体の美しさである。



厳密には個体差や年齢差があっても気がつかないだけなのだろうが、それでも動物の肢体の美しさに感じ入ることがある。



それにしても野生の生物に肥満がないというのはどういうことなのだろうか。


冬季に備えて食べだめすることはるかもしれないし、餌の少ない冬季や春先には痩せた動物をみかけることがあるが、それらを除けばやはり動物達は実に過不足のない美しい肢体をしている。




現代社会に暮らす人間にとって肥満はごく普通のことであるが、それにしても野生生物との彼我の格差は何を意味するのだろうか。



野生の生物にとって肥満になるということがもし異常なことであるとしたら、人間は生物として既に異常な存在なのだろうか…と考えることがある。







「仏様の世界」というページを見つけた。


『仏様の世界』http://tobifudo.jp/butuzo/mokuji.html


428体の仏様が簡単に紹介されていて面白く拝見している。、


日本は八百万の神のおわします国であると言われるが、多くの仏様を見るにつけ改めて日本仏教の世界の広がりを感じた。



もっともこの「八百万の神」という発想は仏教の多様な仏菩薩に影響を受けたという説もある。


つまり日本の神話を編纂した人々は、当時の<エリート>=<仏教的素養を持った人々>であり、神話の記述に仏教的な世界観が反映したというのである。確かにその可能性は否定できないだろう。




天部の仏のなかに梵天がある。


梵天はインドにおけるブラフマンを尊格としたものである。


梵天は日本ではマイナーな存在だが、ヒンドゥー教においてブラフマンとは宇宙の根本をつかさどる至高の存在である。、


如来、菩薩、明王、天部という分類のなかでは如来が最高位にあるが、ブラフマン本来の役割を考えるなら、最下位の天部に属する梵天ブラフマン)は実は如来を越える位置にあることになる。



ブラフマンという存在は単なる序列上の優位ではなく、神の存在そのものも包摂して全ての事象、存在の背後にある存在だからである。



日本の神話のなかでは天之御中主(あめのみなかぬし)がこれに近いように思われる。



天之御中主は造化神として天地開闢の原初の時に現れたのち、姿を隠したとされる。





また全ての背後に遍在するというありかたは如来のなかでも大日如来が最も近いように思われる。



大日如来は宇宙の中心にあって至高の存在であると同時に、全てのもの、近いもの、低いもの、卑しいもののなかにも在りと在る存在である。



ブラフマン 大日如来 天之御中主


という三柱はどこかでつながっているのだろうか。



天之御中主が姿を隠したというのも、彼方に消えたのではなく、全てに遍在する存在になったということであろうか。



いつの間にか昨日に続く内容になりつつあるのだが、仏教はヒンドゥーの正統からは異端とされながらも、やはりブラフマンへの帰一というテーマを形を変えて保持し続けたのだろうか。


空海の即身成仏も解脱というより、このブラフマンとの合一、梵我一如が大きく関わっている気がするのだが、まだ漠としてよくわからないでいる。



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