東京土産 アップルパイはいかが?


本日8日は薬師如来の縁日である。


南無薬師如来    合掌







昨日は朝方からグッと冷え込みが厳しくなり。深秋へと足を踏み入れた感がある。




ここ数日は穏やかな天候だがまもなく台風が来るとの予報である。




数日前に老僧が関東の親戚を訪問して帰山。




首都圏の交通機関は便利な反面、田舎では考えられないほど複雑である。案の定、老僧はぐったり疲れて帰ってきた。ご苦労様でした。





東京土産に買ってきたのは…



「京都三千院 栗餅」



ギャグかと思いましたが本人はいたって真面目でした…




しかも栗というのは老僧自身の好物なので2度笑いました。






【修理にだしていた念珠ができあがってきたので届けてもらった。1万円で買った念珠の修費が6000円というのもかなり微妙…でも安いものでも水晶を持つのは念珠は良いと思う】




パラマハンサ・ヨガナンダの喜びの源泉 (叡知シリーズ)

パラマハンサ・ヨガナンダの喜びの源泉 (叡知シリーズ)





最近、近代インドの精神文化に興味を持ち、その流れでパラマハンサ・ヨガナンダの著書を読んだが、非常に興味深い内容である。





西欧列強の文明が流入する過程でアジアでは自国の文明を棄て、英語を学び、西欧の文明を求めた人々がいた反面、逆に自国の伝統に回帰しようとした人々もいた。そしてさらにその一部は西欧に対して自国の精神的伝統を伝えようと努力した。





武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)



日本人であればすぐに新渡戸稲造が「武士道」を表し世界的なベストセラーになったことを想起するだろう。



西欧文明がアジアに広がった反作用として宗教、哲学、道徳においては西欧はアジアからの大きな刺激をうけることとなった。




ギャーナ・ヨーガ―知識のヨーガ

ギャーナ・ヨーガ―知識のヨーガ





近代のインドでその先駆となったのはラーマクリシュナの高弟であったスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(1863−1902)であろう。




パラマハンサ・ヨガナンダ(1893−1952)が生まれた1893年はちょうど スワミ・ヴィヴェーカーナンダがアメリカに西欧への外遊に出発した年である。




ヨガナンダは1920年からアメリカでの布教を開始した。




彼の説くインドの宗教や哲学は今日でもアメリカで大きな影響力を持っている。



ヨガナンダは単に新しい宗教や哲学を説いたのではなく西欧の宗教とインドの宗教の根源的な共通性を説いたことは大変に意義があると思う。




あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝



カリスマ的成功者である故スティーブ・ジョブズIPADに唯一ダウンロードした書籍はパラマハンサ・ヨガナンダの自伝「あるヨギの自叙伝」だったというのは有名な話である。




この世で逞しく、生きていくことと宗教や哲学の価値観で生きることを両立させることは大変に難しいが、ヨガナンダの著書の中にはいろいろなヒントがあるように思う。





『所有するということはその物に所有されるということではないですか?』



とヨガナンダはいう。



私たちは「〜を持っている」という。



言葉のうえでは所有者は<私>であるが、それが貴重なものであればあるほど私たちはそのものに心を奪われてはいないか。



これは実に深い言葉ではないだろうか。




このことは初期の仏教やジャイナ教が物品を所有することを厳しく制限したことの真意だったのでは無いかとも思える。




あるいは感覚の問題。





「般若心経」に「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」という一節があるようにインドの宗教では五感を制御するということが大きなテーマであった。



私たちの体にはくまなく感覚器官がうめこまれている。




一見すると感覚を感受する感覚器は、人間の意識の支配下にあるように見えるが、実は私たちは感覚の奴隷となっているのではないか。




私たちはすぐに外界の楽しみに心を奪われ、時には体にとっては有害有毒なものですら嬉々として受け入れる。食事でさえ節度を越せば必ず内臓を痛め、諸病のもととなる。



私たちは十分な食事をしたあとでさえ「アップルパイをどうですか?」と美味しそうなアップルパイを勧められるとついつい食べてしまう…とヨガナンダは言う。(「アップルパイ」というのがいかにも往時のアメリカらしい)



私たちが主に体の表面に張り巡らされた五感に支配されるということは心や魂といった内面の、際奥への意識から遠ざけるのであるというのである。



感覚への盲従は魂の器である身体まで損ない失わせてしまう。感覚の愉しみにふけり災いを招けば今度はその災いに心を奪われ、人生の大切な問題を考えることなく日々を送ってしまう。なんという無駄な回り道であろうか…




この見解は全く正しいと思える。



五感だけではなく意識活動のなかにも感覚的で表面的なものとより高次で複雑なものがある。



笑いというのは大切なもので、常に温顔を絶やさないということはとても大切なことだが、テレビを見れば意識の表面をくすぐるだけの刺激的な笑いが過剰ではないだろうか。



テレビ番組を視て刺激的な笑いに心を浸すことはいくらでもできるが、心が穏やかになったり、心が澄みわたるという経験は実に少ない。あるいはテレビを見て社会への正義や家族へ愛情、哲学や道徳に目覚めることははとても少ない。



五感や感情の波立ちに身を任せることは人生の真の目的から私たちを遠ざけてはいないか…というヨガナンダの教えは100年も前の言葉とは思えないほど説得力があるように感じられる。



この文章を書いていて昔見たアメリカの料理番組を思いだした。



料理人がジョークを交えて料理を作り、スタジオに来ている参加者の1人をステージに上げて一緒に料理を食べるという楽しい番組だった。



あるときアップルパイを食べていたのを思いだす。




大きなアップルパイにさらに大きなアイスクリームやクリームチーズを添えて食べていた記憶がある。



子供心にもそれがとても美味しそうにおもえたからこそ覚えているのだろうが感覚の愉しみという誘惑というのはかくも強烈で根深いものなのだろう。




【パイつながりでオマケ。 名曲ですね!】




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