和顔愛語 苦楽逆転の法則





大型台風19号がいよいよ近づいている。



赤れんがハーフマラソンはどうやら無事に終了したようである。



関係者の方は胸をなでおろしたにちがいない。









霊場会の広報誌に400字ほどの短文を掲載してほしいという依頼が編集者から頂いた。




テーマは《自分が大事にしている言葉》。




いろいろ考えて『和顔愛語』という言葉について書くことにした。




『和顔愛語』は「大無量寿経」のなかにある言葉である。




優しい穏やかな表情や愛情ある言葉で相手に接することは布施であると説かれる。




但し、この言葉も考え出すといろいろ切り口が見つかった。




キリスト教では“愛”という言葉が盛んに用いられるが、仏教における“愛”という言葉は執着に近い否定的なニュアンスを持っている。




だがこの『和顔愛語』における“愛”は現代語のそれに近い…




この辺りは専門的知識がないと解明できないところでもどかしい。





以前に証明書用の写真を撮ってもらった時に、自分では普段どおりの穏やかな表情で撮ったつもりだったのだが、出来上がった写真を見ると随分と固くて暗い表情だったので驚いたことがある。




セルフイメージと相手との印象が異なることはザラである。



自分では愛想が良いと思ってもそうでなかったり、たった一度人にそういわれただけで自分は対人関係が上手であるなどと誤解してしまうこともある。




正しいセルフイメージを持つことはとても難しい。『和顔愛語』は案外難しいものである。













世の中には聞き上手という人がいる。




疲れたときにちょっとあの人に話を聞いてもらいたい…そう思われたらやはり冥利につきる。




私にもそのような聞き上手な友人や知人が何人かいるが、その人達はとても大きな功徳を積んでいると思う。




「愛語」も大事だが、結局、相手と調和する<愛念>がなければ「和顔」も「愛語」も成立しない。



最期は相手に向ける心が大切ということに尽きる。





仏教には『一念三千』という言葉がある。




この言葉の解釈はいろいろあるが私は1人の人間の思い、想念はこの世界、宇宙全体につながっていると勝手に解釈している。



子供の居る家にいくと玄関のドアをあけただけで明るい感じを受けることがある。




その人の意識が周囲に影響をあたえている分かりやすい例である。




もうひとつの側面は物理的に近い範囲だけでなく、私たちの意識は常にこの世界全体にリンクしているのではないか…ということである。



私たちが穏やかなな愛情に溢れた意識をもつことは実は世界にそのようなエネルギーを与えているのだと思う。自分の笑顔が世界を照らす光になっていると思うと楽しい気分
なってくる。笑顔の功徳は周りのひとだけでなく、世界全体に及ぶとすれば、その功徳は大変に大きいものなのかもしれない。













テニスの錦織選手の活躍が記憶に新しい。








一流のアスリートのトレーニングは過酷であり苦痛を伴う。




しかし、それらが積み重なったときに大きな成果として様々な良き結果がもたらされる。




名誉、財産、地位…




我々凡夫はついついその成果だけに眼がいってしまうが、その長い長い“苦”に満ちた道のりに気がつく人は少ない。






生物的な宿命といってしまえばそれまでだが、大半の人間は様々な局面で“楽”を選択する。



その積み重ねはどうなるかというと結局は“苦”につながるのではないだろうか。




美食過食や飲酒が健康を損なうというのは分かりやすい例だろう。




一般に幸福と呼ばれるもののほとんどは、形を変えた苦痛にすぎません。
                   パラマハンサ・ヨガナンダ「喜びの源泉」


単なる快楽の追求だけでなく、何もしないというのも一種の“楽”の選択なのだろう。



私たちは変らぬ環境に安住することが好きである。



おそらくこの宇宙には進化するものを助けるという法則があって前向きな努力はいつか報われる。



逆に現状維持に拘泥する者は淘汰されてしまう。なかなか厳しいものがある。




生物の進化も社会の進化も本来は時間的スケールが全然異なるもので混同すべきではないのだが、どこかでつながっているのかもしれない。





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