冷静な従姉妹が 上虚下実 君が代 「大本営参謀の情報戦記」
当山の境内の一部は福井県の県境に接している。
それは大飯や高浜などいわゆる“原発銀座”の直近であるということを意味している。
先日、高浜で原発事故を想定した大規模な避難訓練が行われたそうである。
従姉妹が高浜に住んでいるのだが、従姉妹はうたた寝していて『訓練が行われる』という冒頭のアナウンスを聞き逃していたらしい。
うたた寝のまどろみの中で…
『原発で重大事故が発生…』
というアナウンスだけを聞いたものだから従姉妹は…
大パニックになったという。
普段は冷静な従姉妹がどんな様子だったか想像するだけでおかしいが、こういう話を聞くと自分が原発のすぐ近くで暮らしていることを実感せざるを得ない。
- 作者: 日経ヘルス,龍村修
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「龍村修のすぐできるヨガ」(日経BPムック)は良いテキストだと思い時々参照している。
ヨガの初心者がとまどうのは呼吸と動作の連動ではないか富もう。
この「龍村修のすぐできるヨガ」は動きと呼吸がシンプルなので本とくびっぴきで眉間にシワを寄せながら…ということがない。
“両膝を閉めるポーズ”も実にシンプルである。
座布団やヨガマット、ボールなど何でもいいので両膝の間に入れて足で締めるようにする。その状態で下腹部に力を入れて呼吸を繰り返す。
ごく簡単なポーズなのだが、その場で体感できるのはストンと肩の力が抜けることである。
『上虚』の端的な意味は<肩の力が抜けている>ことである。
『下実』とは何かというとかなり難しいが
単に力が入っているというより
両脚で何かを挟み込んだ時のような力の入れ方をしたときに生じる、適度な緊張感と安定感のようなものだと思っている。
中国武術の鍛錬法で馬歩という足を開いて腰を落とした立ち方が有名である。
<馬に乗る>というのは馬の胴体を締めるようにして跨ると解釈するとこの馬歩という立ち方も『上虚下実』と重なるところが多い。
スマホ、携帯、ゲーム機などを多用していると肩、腕、眼に緊張が蓄積し、下半身の力が虚した感じになる。
『上虚下実』が人間の健康には望ましいと考えているが現代は『上実下虚』の人間が増えつつあることになる。
これは決して小さな問題ではないと感じる。
一昨日は市の戦没者追悼式典に出席。
プログラムの中に国歌斉唱があった。
日本というのは外国の国家や民謡を習うのに国歌をきちんと教えないというまことに変な国である。やはりもっと国歌を習い、国家を歌う機会を増やすべきだろう。
隣席の初老の女性が綺麗なソプラノで国家を歌われたのでちょっとびっくりしたが、とても素敵だった。
後で伺ったらコーラスをされているとのこと。
式典は滞りなく終了。来年は遺族会の創立70周年とのことだが参加者の高齢化が著しい。
だがその式典の中に何かが足りない気がした。ただそれが何であるかが判然としないでいる。
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若い頃は戦争について漠然とした知識しかなくその悲惨さに実感がなかった。
戦争は害悪であり平和を希求すべきだというマスメディアの論調をそのまま信じていた1人だったが、いつの頃からか平和主義を唱える人たちの虚妄のようなものに感じ、戦争に一定の『義』があったのではないか…と感じるようになった。
2年ほど前から戦争について書かれたものを読むことが多くなったが、日本の戦った『義』とは別に、やはり戦うべきでなない戦争を戦ったのではないか、またその実際の戦闘があまりに不合理であったのではいかということにしばし言葉をなくす思いがすることがある。
現在は北出大太「奇跡の飛行艇」(光人社NF文庫)と「大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇」(文春文庫)を読んでいる。
後者は「軍事問題」というカテゴリーの中で1位だったので密林の古書で購入。
ここに書かれている日本の失敗の多くは実に教訓に満ちたものである。個人や企業にとっても大切な財産となるに違いない。
そして何より日本が“情報”を軽視したなかでアメリカとの戦争に突入していた様子が克明に記されている。
アメリカは自国のみならず欧州の連合国、ソ連、中国の兵站を担った巨大な産業国家であった。
その産業の巨人に日本が挑んだことの愚かさを改めて感じる。
巨人に挑むならせめて周到な準備をすべきであるにも関わらず、相手の巨大さすら認識しえないまま相手に挑んだ日本…
アメリカに関する情報すら殆ど無い状態で開戦し、戦局が逼迫し、日本への反攻が本格化し昭和18年頃にようやくアメリカの情報が重視され、専門の部局が立ち上げられたという。
対してアメリカが日本について情報を収集しはじめたのは大正10年に遡るという。(恐らく日露戦争後にはすぐに日本を仮想敵国としていたはずである)
情報が全ての行動の指針であり基盤であるはずがその情報そのものが殆ど無いままに開戦したという現実に愕然とせざるを得ない。
本書を読むと殆ど絶望に近い感慨すら湧く。
そして日本の虚の部分というのが連綿と再生され続けているのではないかということに思いが及ぶといよいよページをめくる手が重たくなる。