たまにはオペラ 利休さんと桑田さん


お世話になった方が亡くなったという知らせを受けて、遠方に弔問にでかけた。






往復15時間の長旅になって、少々疲れたがいくつも得がたい経験をした。





深夜山寺に帰山したが、疲れをとるのにヨガとストレッチをしながらぼんやりYoutubeを観たらだいぶ回復できた。





「トゥーランンドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」は好きな曲だが





新旧、国内外いろいろな歌手のものを聴き比べていたが福井敬氏のものが良かった。








そのつながりで観た「乾杯の歌」も華やかで夢みるような気持ちにさせてくれる。






たまにはオペラもいいものである。








ローカル線は本数が少なく、乗り換えそこなうと大幅に遅れるので




道中寝ることができなかった。




眠気予防にと何冊か本を持っていったが




森神逍遥「詫び然び幽玄のこころ」が面白かった。




侘び然び幽玄のこころ─西洋哲学を超える上位意識

侘び然び幽玄のこころ─西洋哲学を超える上位意識




日本文化の重要な精神である「わび」「さび」「幽玄」について書かれたものである。





これらは日本の文化では極めて大きな意味をもっていることは疑いないが、これらを説明できる方は殆どいないだろう。




もし外人さんに




「日本ノ『ワビ』『サビ』オシエテクダサイ」




と言われたどうします(笑)




古文研究法

古文研究法




受験生の頃使った昔懐かしい古文の参考書「古文研究法」にも「わび」「さび」「幽玄」が説明されていたがよくわからなかった記憶がある。





その時はいっそ「わび」も「さび」も「幽玄」を統合して「わさび」というのを作ったらいいと思ったものだ。それほどわかりにくいのが「わび」「さび」「幽玄」である。






その後日本文化についての本も随分読んだが、大抵は三夕の歌、利休、芭蕉などお決まりの人物を取り上げて説明されるのだがどうしてもピンとこなかった。








著者は在野の研究者だが破壊的な批評精神の持ち主で『貫之は下手な歌よみにて「古今集」はくだらぬ集に有之候。』という子規の「歌よみに与ふる書」を思い出した。





歌よみに与ふる書 (岩波文庫)

歌よみに与ふる書 (岩波文庫)






本書を読んで胸を衝かれる思いがしたのは利休の朝顔のエピソードである。





朝顔の好きな秀吉が利休のもとを尋ねると朝顔がすっかり取り払われ、室内にたた一輪の朝顔がいけてあった…





私も永い間、このエピソードを以って利休はカッコイイと思っていた。





だが著者は利休を傲慢だというのである。
著者は芸術家としての利休を高く評価する一方、その精神に傲慢や権勢欲を指摘する。





私が朝顔のエピソードを以って利休を素晴らしいと感じていたのは、従来の利休の評価や権威にいつのまにか盲従していたのではないか!と気がついて愕然としたのである。





一輪の朝顔を演出するために無数の朝顔を刈り取るなど、そこには朝顔への愛情がないではないか…と気がついたのである。






咲き誇る朝顔を想像してやってくると朝顔が無い…落胆し、意外の感に打たれて室内に入ると一輪の朝顔がある…確かに演出としては素晴らしい。秀吉は朝顔が好きだったといわれているのでなおさらだったろう。





だが無数の朝顔をそのままに堪能させたあとで、茶室の一輪の朝顔を見せてもよいのではないだろうか。




もちろん演出としては劣るのはやむをえない。





しかし、咲き誇る無数の朝顔を刈り取ってしまうというのは無残ではなかろうか。





いつ命をとられるか分からない戦国の世にあって、朝顔を刈ることなどは何事でもなかったのかもしれない。





だが刈り取られる朝顔を無残と思う気持ちなくして、一輪の朝顔という“命”にも感動できないのではないだろうか。










そう感じると、最高の茶人にして、最高の文化人としての利休像がガラガラと崩れていくように感じた。





利休の茶道には秀吉への対抗心を感じる。





秀吉が贅を尽くした豪華絢爛たる茶の湯に対して、その対極を示す方法としての簡素な茶の湯を提示したのではないだろうか。





茶の湯の出発点には権威への反抗や破壊の精神があったことになる。





一方、現代の茶の湯にどれくらいそうした反抗、批判、気概、破壊といった精神性があるかというと疑問である。





現代の茶の湯には伝統になかに在るという安心感や美意識への感動、茶の湯を介して人と交わる喜びはあっても、そこには利休のような破壊的精神性は失われているような気がする。






千利休の使った道具というものがあれば現代の茶人は愛好するだろうが、それはもしかしたら千利休の一番嫌ったことなのかもしれないのである。




 











ロックという音楽にも権力や権威への反抗精神がある。







ところがロック歌手が大いに売れ、名声や財産を手にするとどこか権力や権威がみえかくれすることがる。






先日、サザンの桑田氏が叙勲し、さらには勲章や皇室を軽んじる言動によって物議をかもした。






ロック歌手である桑田氏は勲章という権威を拒絶するのもひとつの選択しだっただろう。そして叙勲を受けるなら皇室や国家に対して相応の感謝や敬意がなければならないと思う。





このことはかなり難しい、そして面白い問題を含んでいるので折にふれて書いてみたい。








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