高野山の秘仏 骨>筋肉  ローカルな私

寒の戻りで昨日から時折みぞれが降る。






一昨日は知人の訪問を受け、高野山金堂での秘仏御開帳に話題が及んだ。






金堂の本尊は薬師如来だと思っていたのだが「アシュク如来」と併記されている場合がある。







金堂の本尊は明治の彫刻家高村光雲によって作られた仏像だが、製作されて80年しか経っていない仏像の種類が確定していないというのも珍しい…





霊宝館のHPにある「高野山よもやま記」でも「薬師如来(阿シュク如来)」と表記されている。



【関連記事】
http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/hall/kondo/kondho02.htm








作者である高村光雲師は高野山から依頼を受けて本像を製作されたのであり、製作を依頼された時点でどのような仏像にするかについては了解がなければならないはずである。




本尊の種別が確定していないというのはなんとも不思議である…




幕末維新懐古談 (岩波文庫)

幕末維新懐古談 (岩波文庫)





先日檀家さんの家にお参りに行ったら3歳くらいの女の子がお仏壇に向かって「アン、アン」と言っていたので、3歳にして回向を覚えるとは見所あるなと思ったが…御両親に伺うと「アン、アン」とは「アンパンマン」とのこと…ま、そんなもんです。





大法輪 2015年 01月号 [雑誌]

大法輪 2015年 01月号 [雑誌]




先日、彼岸法要に出仕した西国観音霊場松尾寺で「大法輪」(平成27年1月号)を頂いた。




その中に職業別の守護神の特集があったので興味深く読んだ。



商家や漁業関係者が恵比寿を祀るというくらいのことは知っていたが、



藍染→愛染め>



という音の響きから染織業では愛染明王への信仰が篤いというのは初見だった。




露天商は的屋(てきや)、香具師(やし)、神農(しんのう)等と呼ばれる。




「やし」という言葉は山伏らが門前で薬草を売っていたことに始まるとされ、そのため「薬師如来」の「ヤクシ」から「ヤシ」という言葉が生まれたという




露天商は神農を参拝することが多く、任侠道のように露天商のモラルを指す「神農道」という言葉もあるという。







『「筋肉」よりも「骨」を使え!』



武術家の甲野善紀氏とスポーツトレーナーの松村卓氏の対談集。



対談なので情報の密度はやや薄いが、そこで語られている内容については本質的なこと、革新的なことが多い。スポーツや武道に関心のある方には「買い」だと思う。




<筋肉にたよらないほうが力がでる>
<力を抜くと力が出る>
<筋肉ではなく骨を使う>…



甲野氏が一貫して追求してこられたテーマだが、その内容は常に進化していく。
甲野氏が魅力的なのは人間の身体に無限の可能性を見出してその開拓に邁進されていることだ。


そしてかっての日本には高度な身体性が駆使される文化や生活が間違いなく存在していたということであり、甲野氏は自身の活動を通じて日本人の高度な身体知の復権、ひいては日本人の再興につながる方向性を示しておられることだと思う。



庄内米で知られる山形県酒田市の資料館には小柄な女性が米俵を5俵も担いでいる写真が残っているそうである。5俵ということは約300キロだが、小柄な女性が300キロを担げるのも筋肉ではなく「骨」を使うことができたからだという。



筋肉を増やせば運動のパフォーマンスが高まる、重いものがもてる、早く走れるというのは必ずしも断定できないというのである。



それどころか筋トレで筋肉が増えるほど運動ができなくなることすらあるという。



本書では体育、スポーツ、武道の概念自体が変ってしまうような議論が次々と展開されていて実に興味深い。



第一章のタイトル「常識を根本から疑ってみる」というのも心に響いた。



「常識を根本から疑ってみる」…この言葉は最近考えていることととてもつながっている気がしたからである。




【松村氏の提唱されている骨ストレッチの一部が見られます。関心のある方はお試しください】





最近、モヤマヤしていたことが少しスッキリした感がある。




日常のいろんな場面で違和感を感じていたことの理由が少し分かった気がしたのだ。



何にモヤモヤしていたかというと



《お金×グローバル》



という存在が自分の生活を覆っているということの根本に何があるかということが少しはっきりした気がしたからである。





現在の日本では<経済が発展すればすべてうまくいく>という考え方があまりにも支配的になりつつある気がする。







経済の発展は本当に善なのだろうか?





シンガポールの初代首相であったリー・クアンユー氏の死去のニュースが報じられた。




グローバル経済のお手本はシンガポールだといわれるが




シンガポールは実質的に一党独裁が敷かれ、経済発展が全てに優先され、政権は世襲化されると共に、野党や学生運動も圧倒的に不利な条件下におかれているという…




経済発展は凄まじいが政治的自由もなく、文化や芸術は軽視されている。




「明るい北朝鮮



とまで言われるゆえんである。




シンガポールがグローバルな経済のお手本なら、グローバルな経済そのものが間違っているとしか思えない。









<生物にとって生きるとはローカルなこと>ではないだろうか…と改めて思ったのである。








生物として生きるとは自分の居る極狭い環境の中で生きていくということである。
そして自分の身体という内側とつながって生きるということである。




そして狭いながらもその環境に多用性があり複雑なバランスがある。
身体もまた無限に近い多用性をもっていてその無限の多様性とつながって生きる…多分、それが「生きる」ということだと。




生物としてのローカルさという本来のあり方をグローバルな経済は見失わせているのではないかと気がついたのである。



厳密に言えば私たちは太陽の与える光や熱なしには生きていけない。その意味で私たちの生命は“ユニバーサル”(宇宙的)といえなくも無い。あるいは海流や気流の変化は地球規模で関連しているという意味では私たちの生存は“グローバル”(地球的)といえなくもない。



しかし生きるということの中心は自分の身の回りの環境との関係性のなかでしっかり生きていくということに尽きるのではないだろうか。



そしてお金が中心になるとお金に換算されないものは評価されなくなる。




太陽の熱やエネルギーは絶対に必要だが、それらは“タダ”である。



経済が中心だと一番大切なものが評価の対象にならないのである。



経済というのは数字が判断基準になっている。





全部が数字に換算されてそれが「大きい」「小さい」「勝った」「負けた」という判断が下される。






グローバルな経済の行き着く先は経済的な勝者だけが生き残るという世界ではないだろうか。そこには多用性や深みがないと感じるのである。





しばらく前に世界最大のスーパーマーケットであるウォルマートが全米各地に進出することで地域の小売店が壊滅してしまうという記事を読んだが、そのウォルマートもアマゾンのサービスが次々に拡充する中で苦戦しているという。






地方で暮らしているとアマゾンのようなサービスはまことに便利だが地元の小売店にすれば大変な問題であろう。









いつの間にか私達はグローバルな経済につながって生きていくようになってしまった。
そのことは誰でも自覚できることだが、ではその在りかたに違和感を感じる人はどれくらいいるかと考えるとこころもとない。





グローバルな経済というのは<便利なこと><素晴らしいこと><心地よいこと>というパッケージで包まれているからである。





そして生きるとはローカルであり、不便や不快を選択することにつながる。





但し、そのローカルな生き方を極めていくと実はとても深いものにつながることが可能性があると思う。





グローバルな経済を無条件で否定することはもはやできないが同時にあまりに無自覚、無批判では(本来的にローカルであり、深みのある)自分の生き方を失ってしまうのではないか。






最近違和感を覚えた件。




地元の赤レンガのロゴマークを作ることになり一流のクリエーターに製作を依頼し、東京の六本木でお披露目が行われた。




「一流」「クリエーター」「東京」「六本木」一見、すごい…と思うのだが一呼吸置いて考えると、本当にそんなことが必要なのだろうかと思える。地方創世のひとつの方向は東京(中央)への志向というのがあるが、東京に近づくことが本当に必要なのだろうか…



なんか無理して片意地張っている気がするのである。
(ちなみに出来上がったロゴマークは赤と青の帯が並んでいるだけ…いくらんでもオソマツではないだろうか?)



東京がイイというのは地元(ローカル)にそもそも価値や魅力を感じていないのではないだろうか…




何年も前に若い友人から「地元の人が納得して暮らすことが一番大事である」という話しを聞いて眼からウロコが落ちた。今でもそのときの受けた強い印象を忘れない。







木質バイオマス発電への期待 (林業改良普及双書 (No.135))

木質バイオマス発電への期待 (林業改良普及双書 (No.135))





昨年、「バイオマス」について調べた。



山から切り出した木材を燃料にできれば、何年か後には木材は再生していく。




極めて循環的なエネルギーの流れが生まれる。もちろん循環というのは絵に描いた餅である。





例えば江戸時代には人口増加に伴なって森林資源が枯渇し、禿山が続々と生まれていたという。








グローバルもローカルも破綻する可能性があるのかもしれないが、グローバルという流れが圧倒的に大きななった現代ではローカルな自分を再発見することが一層大切な時代なのではないかと思う。






   ブログランキ

ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)








.