桜日和 朝ドラ しづ心無く






境内の桜も5分咲きか…と思いながらネットを見ていたら市内の桜が満開の様子。




山寺は山陰にあるせいか開花が少し遅いのである。




市内のあるお寺の門前の桜が見事…という書き込みを見かけたので午後から出かけた。




明日以降天候不順なので本日を逃すとせっかくの桜も盛りをすぎると思ったのである。





お寺に着くと門前の桜は満開。空は気持ちの良い青空である。ここに何をか加えんや。










周辺の水仙ユキヤナギなども元気に咲いていた。そしてお寺の佇まいや雰囲気と相まって心がゆるゆると和む。



年配の男性が奥様らしい方の車椅子を押してやってこられた。或いは散歩の途中に立ちよられたらしい女性…みなさんこの桜が大好きなのだろう。






御住職とは親しくお付き合いいただいているので少しだけお話をした。
まだ若いが実に立派な御住職である。お話する度に感心してしまう。






【桜の花陰のなかに咲く水仙


レンギョウの黄色は元気をもらえます】





庫裏の玄関で住職と少しお話してから門前に出ると桜見物の介護センターのバスが何台も駐車していて停めてあった私の車はすっかり取り囲まれていた。




このお寺の桜は地域のみなさんの憩いの場となっているようであった。
桜を心待ちにし、桜を愛でる日本人の心がいつまでもなくならないようにと思わず念じた。





山寺に帰ってくると桜の開花が眼に見えて進んでいた。満開まであと少し。










TVドラマは見ないが朝ドラだけはかなりマメに見ている。





今回の「まれ」は能登が舞台。
海辺の光景にデジャヴュ…NHKの「あまちゃん」よ再びの意欲をひしひしと感じる。




最近のドラマを見ていつも思うのは<家族>が既になんらかの危機に遭っているところからストーリーが始まるということ。昔のドラマなら家族という安定した場に事件の波風が立ってもそれが収まってもとの家族に戻る…というのがパターンであった。多分に現実を反映しているのだろう。そして男(夫)がダメ系、女(妻)がしっかり者というのも最近のパターン。これも現実の反映か…




最近の朝ドラの主題歌で気に入っているのは「ありがとう」「にじいろ」。




先日終った「マッサン」の主題家「麦の唄」で「1本の麦になる」という歌詞を内容に引きずられて「日本の麦になる」と勘違いしていた。いい加減なものである。








【読んでも悟りは開けませんがヒントはもらえます】





桑田二郎さんという漫画家は「月光仮面」「エイトマン」など往年の名作で知られる漫画家だが、宗教にも造詣が深い。そして単に知識が豊富というより宗教的な感性を以って書かれた作品が多数ある。「般若心経」や「観音経」について書かれた作品などは読んでいると触発されるものがある。



そのなかに瞑想について書かれてあった一節がっあった。およそ以下のような内容である。




器の中に水が入っている。



器とは肉体であり、水は意識である。



外界の振動が器に伝わると、中の水も振動し、水が揺れる。



この揺れている水というのが自我意識ある。



器が揺れている状態が長く続くと、その揺れている状態こそが自分の実体だと勘違いしてしまう。



しかし本来、器の中の水は揺れや振動のない状態がもともとあったのである。したがって外界からの器の振動を止めることで水の揺れはおさまり、水は揺れ動く前の元の状態を取り戻すことができる。




水が揺れる前の状態に戻すために器の振動を止める努力が瞑想なのである…




…およそそんな内容のことが書いてあったが、これは座禅瞑想の要点をついたなかなか上手な喩えだと思う。




私達は常に外界からの刺激や内なる感情の起伏のなかに意識を置いている。
そしてその状態が正に自分だと認識してしまっている。



しかに本来の自己はもっと別の姿をもっていたのである。それを思い出すために感情を静めることが必要なのである。その端的な行為が座禅や瞑想なのだと思う。



宗教的な修行というのは何か特別なように思われがちだが、唯ひたすら本来の自己を思い出すといっても差し支えないかもしれない。



私達の心は桜が散っても心を動かされる。否、心をかき乱す苦悩や執着や怒りや悲しみであれば心は大きく揺れてとどまることを知らない。



だがいつか…私もこの心の波を静め、元の自分に出会いたいと思うのである。




ひさかたのひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ



   ブログランキ

ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)








.