新緑 猿の仔猫の仔 「春画のからくり」

 




国道27号線から青葉山の方角に左折すると眼の前に青葉山を中心とする山々が眼に入った。



常緑樹の濃い緑色と新緑の淡い緑のコントラストがとても綺麗だった。



新緑の季節ももう少しすると淡い緑が少なくなってくるのでこの季節の清新な緑は貴重だと思う。



境内のもみじの新緑もこの時期がほんとうに心地よいと思うが、一般にはもみじは紅葉を楽しむものと思われていて新緑のもみじを好む人が少ないのは少し残念だといつも思う。



大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト) 第二巻

大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト) 第二巻



ラーマクリシュナの「不滅の言葉」を時々読む。



現在3巻まで刊行されているが、4巻の発刊も間近である。




言葉はとてもシンプルだが考えさせられる内容が多い。



しかし、このような人物が現代に生きていたらはたして「聖人」とよばれただろうか?



「アブナイ人」「変人」「○チガイ」「危険人物」…などとよばれるかもしれないのだ、誰よりも純粋で求道の心を持った存在が。






日本の宗教家の列伝を見ると時に乞食と交わり、野に暮らした人を見ることがあるが、真実の智慧に達したときに、綺麗と汚いの区別がなくなり、子供のようになるというラーマクリシュナの言行を見ると理解できる気がする。




ラーマクリシュナは修行について次のようなことを言っている。





どうする?あの御方の足許に何もかも差し出してしまえ。あのお方に全権委任状を渡せ。あの御方がいいようにして下さる。立派な実力者に任せてしまえば、その人は悪いようにはしないよ。
 修行はたしかに必要だ。だが、二種類の求道者があってね“猿の仔タイプ”と“猫の仔タイプ”だ。猿の仔は自分で一生懸命になって母親にしがみついている。こういうタイプの求道者は、これだけ称名して、これだけ瞑想して、これだけ修行をつめば神を覚れるだろうと考えている。自分で努力して神をつかむんだ。
 けれども、猫の仔は自分で母親につかまることができない。横になって、ただミャーミヤー母親を呼ぶだけだ!母親はどうするか。母親は時にはベッドの上にのせたり、時には屋根裏部屋の薪のかげなんかに置いてくれる。口でくわえてあちこち連れて歩くが、仔は自分で母親につかまることを知らないんだ。こういうタイプの求道者は自分でいろいろ工夫して修行できない。何回称名しようとか、何時間瞑想しようとか、そういうことができないんだ。この人はただもう夢中になって泣き叫ぶだけだ。あの御方はその泣き叫ぶ声を聞くとジッとしていられなくなって、こっちへやってきて会って下さる。
               (「不滅の言葉」第二巻 350p)




日本の仏教でいえば禅宗真言宗日蓮宗などは前者で浄土宗、浄土真宗は後者に属するといえるだろう。




2つのタイプにそれぞれ長所と短所がある。それを補うには猿の仔であると同時に猫の仔であることが必要だが、そのどちらにもなれないことも多い。せめてどちらかにがなりたいものだ。






すぐわかる琳派の美術

すぐわかる琳派の美術

春画のからくり (ちくま文庫)

春画のからくり (ちくま文庫)




本日ブックオフオンラインから届いたのが「琳派の美術」「浮世絵を知りたい」「春画のからくり」の3冊。





最近、江戸時代の絵画に関心があるが、この時代の絵画は量的、質的にも凄まじいものがある。




浮世絵も絵画というより今日のイラストレーションや写真に近い気がする。



『スーパーイラストレーション』といったところか。




現代のマンガ文化ともどこかつながってくる気がする。



春画も決してポルノではなくもっと様々な鑑賞方法があったようである。






田中優子春画のからくり」の表紙は喜多川歌麿の「歌満くら」の1枚。



20年近く前に古本屋で大判の書籍の表紙にこの絵が使われていて頭にガツンとくるような衝撃を受けて即買いした記憶がある。


構図、衣装、姿勢、背景…どれも素晴らしい。


浮世絵というと交接している部分がしっかり書かれているものも多いがここでは男の手に持った扇子に書かれた狂歌で暗示されている。元ネタは西行の三夕の歌である。


蛤にはし(嘴)をしっかとはさまれて鴫立ちかぬる秋の夕暮れ



…なんとも凄い浮世絵だと思う。



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