今日だけ100人力  割れても末に 





サルスベリが満開。




樹高の低い樹は鹿の食害に逢ったが比較的高い樹は元気に花を咲かせている。







お盆がいよいよ忙しくなってきた頃、地元の海上自衛隊舞鶴教育隊から清掃ボランティアの申し出があった。



有り難くお受けしたが、お盆の忙しさにまぎれてそのままになっていた。




「100人くらい来る」とのことだったが、老僧は精々30人くらいしか来ないという。





そして本日…




いくらんでも100人も来るはずが…







キタ━━━(゚∀゚).━━━!!!

キタ━ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)人(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ━!!




若い衆が100人も!



作業時間は約1時間。




100人×1時間=作業100時間



境内を大いに綺麗にして頂きました。深謝九拝




古代史の窓 (新潮文庫)

古代史の窓 (新潮文庫)




お盆が終って気ままな読書三昧。




森浩一さんの「古代史の窓」(新潮文庫)をパラ読みしていたら面白いことが書いてあった。



古代の中国では恋人たちの間で鏡を贈り物にする風習があって、夫婦がなんらかの事情で別れ別れになるときに、鏡を半分に割って各々その半分づつを持ち再会のときに接合したという。(p42)




これを読んで思い出さざるを得ないのはの崇徳院の詠んだ…




瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ



これはどう考えてもこの中国の故事が背景にあるのではないだろうか?




「割れても末にあはむ」ですからね…




この歌については「崇徳院」という落語が有名で、サゲは鏡が割れるというもの。



歌のなかではでてこない鏡がでてくるというのは、この落語の作者はこの古歌の意味を正確に理解していたからなのか、偶然でしかないのか…なかなか興味深いではないか。



床屋の鏡を割ってしまい「末(月末)には買う」というサゲが不自然だという批評もあるようだが、この歌の解釈としてなら申し分ない。



古い歌の解釈を落語にしのばせるとは江戸時代の知性を垣間見た気がする。





田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)






気になった箇所がもう一点。




紀元210年ごろに秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めて徐福が3000人の童男・童女を連れて東方の海上に去った。





結論だけ述べると、種子島またはその周辺に除福の子孫を名乗る人々が住み、中国と交易をおこなっていたというのである。(p126)



果たしてこれは事実なのか…興味は尽きない。




徐福伝説 (ジャンプスーパーコミックス)

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