ごまめの歯ぎしり

 




本日も温かい1日。



屋内はまだ少し冷気が残っている。



急に野鳥の鳴き声が増えた気がする。




時々、外に出て鳥のさえずりを聞いていると心が呆けるというのか、心が体から抜け出しそうになる。








思い立って座禅を行うことがあるが座禅を経た意識の状態というのは言語的な活動と相容れないらしく、座禅の後は文章を書くことが億劫になる。というわけで数日、座禅したのでブログの更新が滞った。





しばらく前に友人からもらったのメールに座禅会に行っていると書いてあって市内の禅寺が何カ寺か書いてあった。座禅会のハシゴとはなかなかの猛者である。




座禅の後に言語活動が難しいということと、禅の公案にみられる言語矛盾の世界とは関係があるのではないだろうかという気がする。





そんなことを考えていたら「臨済録」と「六祖壇経」が読みたくなり、知り合い禅寺の御住職にを借りることにした。


両冊とも著名な語録である。「語録」というのは本来は禅宗の用語で、師僧の言動や説法などを筆録したものである。現在は広く使われる言葉だが本来は仏教用語なのである。









臨済録 (岩波文庫)

臨済録 (岩波文庫)

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)



最近、テレビのCMで気になっていることがある。



画面に表示される文面が文字が小さすぎて内容が判別できなかったり、表示される時間が短すぎて読み取れない。




その内容は概ね視聴する人間への注意を喚起するものが殆どであるようだ。




保険の勧誘で「生涯保険料は変わりません!」と謳っておいて画面の隅に「但し条件によっては変動する場合もあり得ます」と書かれてあったりするようなものだ。





こうした手法というのは誠実さがないように思う。
とにかく表示さえしたらそれで告知する義務は果たしたというのだろうか。




そのことを誰も問題にしないのがとても不思議な気がする。



世の中はそういったことに目くじらをたてないほうが楽に生きていけるようにできあがっているらしい。




そして日本人はそういったことがらについてとりわけ従順でるように思う。



日本が調和を重んじ、穏やかな社会を作り上げたことは認められるべきだが、




時には流れに逆らう必要もあるのではないだろうか。





そんなことを時々考える。







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