迦陵頻伽の声
昨日は庫裏の横に植えてある椿の枝が屋根にかかるようになったので伐採。
切り落とした枝を処分しながらふと境内の横を流れる川を見ていた。
幅3メートルほどの川を挟んで境内と平行に道路がある。道路のすぐ横は急斜面になっているのだがその斜面に生えているシャガが殆ど齧られている…
斜面のシャガを食べるのは鹿だろうか、急斜面で斜面に立つことなど出来そうにないし、、道路から首を伸ばすか、川中から見上げるようにして斜面のシャガを食べるか…いずれにしても殆ど不可能のように思われた。
川の両側の斜面にユキヤナギを植えたら花の咲く頃には川にしだれるように白い花が咲いて綺麗だろうと思って昨年はユキヤナギを10株ほど植えたのだがいつの間にか全滅していたので、水やりがたりなかったのだろうと思っていたのだが、食害に遭ったのかもしれないと思うとなんともやりきれない気がした。
水仙の緑の群生が斜面にあちこちにみられる。水仙は食害にあっていない。水仙が有毒植物だからだろう。もうじき水仙の花が咲くはずである。
本日は兼務寺院にて留守番。
人家も少ないので鳥が間断なく鳴いている。
耳を澄ませると遠くにも微かに様々な鳥の声が聞こえる。
極楽には迦陵頻伽(かりょうびんが)という美しい生き物がいるとされる。
迦陵頻伽は妙なる美声で鳴くとされ、翼のある天人や下半身が鳥の美しい天人として描かれることが多い。
鳥の声を聞いてその心地よさに浸りながら極楽を夢想した。
マンガで読む観音経〈3〉魂の救済篇 (広済堂文庫―ヒューマン・セレクト)
- 作者: 桑田二郎
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
- 発売日: 1990/01/29
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留守番の合間に桑田二郎さんの「マンガで読む観音経」を読み感心しきり。
分かりやすく書かれているが琴線に触れるというか納得するものがある。
(桑田二郎さんの作品のなかでも「般若心経」「観音経」について書かれているものは特におススメである。)
日本仏教のひとつの柱(実態というべきか)は間違いなく観音信仰なのだと思う。
観音菩薩は妙齢の女性として図像や仏像にされることが多いが
子供が母親を求める心、子供が母親に抱かれて安心する心というのは宗教の根底にあるものだと思うが、日本人の抱いている母性への強い渇仰のようなものが強く感じられる。
「般若心経」の冒頭である。
観自在菩薩が般若波羅蜜多を深く行じし時、五蘊皆空を照見し、一切苦厄を度すとはいかなることなのだろうか
観音菩薩の一般的なイメージから慈悲を連想しがちだが、「般若心経」の観音菩薩は智慧を象徴しているというのも興味深い。
慈悲や慈愛によってではなく、全ての存在は空であると観じる智慧によってあらゆる苦を超えられたというのはいかなる意味であるのか。
「般若心経」を読んでいると言葉のなかに引き入れられていくような不思議な感覚を感じることがある。
読経しては考え、考えては読経する。
雑多な読書をしていると知識ばかり増えるが知識に偏ると、頭でっかちになってしまう。
感性的な読みに傾くと、自分の感覚やひらめきに心を奪われてしまう。
バランスをとりながら読経するというのは面白くもあり、難しくもある。
そのバランスに気持ちが傾くと、供養する対象から心が離れてしまう。
これも非常に宜しくない…(苦笑)
慈悲の根本にあるのは子供を愛する親の愛情だと思う。
最近の世相をみていると子供が親に殺されるというニュースのなんと多いことかと思う。
しかもそれは氷山の一角であり、親に愛されない子供が世の中に溢れている。そしてその子供達が親になったときにどのような親となりうるのか…本当に本当に心配である。
願わくばあまねく子供達に慈悲を与えたたまわらんことを。
南無観世音菩薩
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