地獄に仏
本日は法務で福井県へ。
初めての場所でもカーナビがあれば大丈夫…とおもいきや住所がカーナビにヒットしない。
車を降りて住所をたよりにお宅を探すも
何しろ土地勘が全く無い場所である…
おまけに私は相当タチの悪い方向音痴なのである。
約束の時間も迫り、おまけにみぞれが降ってしんしんと冷えこんできた…
途方に暮れていると眼の前に郵便配達の車が止まった。
降りてきたのは古くからの友人である。
彼が福井で郵便局に勤めているというのは知っていたが、
こんな場面で遭遇するとは思いもよらない相手だった。
友人は早速、車に積んであった住宅地図を調べてくれて先方のお宅を探しだしてくれた。
地獄に仏…実に有り難い経験だった。
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地獄に仏といえば白隠さんのエピソードが有名。
白隠禅師のもとを若い侍が尋ねてきた。
侍は「仏の教えでは地獄と極楽があるがそれは一体どこにあるのか?」
と尋ねた。
白隠さんといえば「駿河には、過ぎたるものがふたつあり、富士のお山と原の白隠」と称えられた臨済宗中興の祖である。
若気のいたりなのか、純粋な好奇心なのか、若侍は白隠さんを少し困らせてやろうと思ったにちがいない。この若侍は微笑ましくも好ましい人物ではないだろうか。
白隠禅師が
「地獄極楽が何処にあるかも分からぬのによく武士が務まりますな」とたしなめると
軽んじられたと思った侍は激高し
「この場で切ってくれよう!」と刀を抜く。
すかさず白隠禅師は
「そこじゃ、そこを地獄をというのじゃ」と一喝。
ハッと我に返って自らの非礼をさとった侍が両手をついてあやまると
さらに白隠禅師は
「そこじや、そこを極楽と申すのじゃ」
と破顔大笑されたという。
地獄も極楽も心が生みだすと…言ってしまえばそれまでである。
だが激高から一転自らの非礼を覚れた若侍はなかなかの人物ではないだろうか。
自分が酷い眼に合わされて感情が高ぶっているときに自らを顧みる余裕はない。
自分自身の経験に照らし合わせても自分の感情を傷つけたり、深い悲しみに陥るような経験というのは容易には解消できないのである。
雪だるまが小さな雪の塊りからだんだんと大きくなるように、ネガティブな感情や心の働きは往々にして反復され、増幅されていくことがある。
さらに別の様々な出来事や感情のわだかまりがそこに合流してどんどんと形を変え、心のなかで決定的な影響力を持つようになる。
そうなるとなかなかやっかいである。
いいかえると
私達は自分の心を律するという意識がないとそうした陥穽に陥る危険があるということである。
地獄を抜け、極楽にいたるためのには
自分の心を律し、静観し、時に開放し、心身の練成と調和とリラックスと再構築を目指す必要があるということである。
そのためのひとつのツールが仏教だといえなくもない。
その意味では仏教は大変に有効なツールだと思っている。
昨今は人間がどんどん動物的な感情と行動を開放するようになりつつある気がする。
この世相の地獄のなかに仏はどのようの現れるのか、あるいは自らがどのような仏を表すことができるのか。
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