雨猫 300年前 太極之道
終日雨模様。雨に打たれる若葉が美しい。
雨のなかを車で走っていると道路わきに白と茶色の猫がうずくまっていた。
…その姿がとても美しく見えた。
猫が静止しているのに動いているように見えたのだ。
それはとても不思議な感覚だが、動物を見ているとそんな印象を受けることがある。
動物の姿や動作に見惚れることがある。
「完璧だ」といつも思う
それに比べて我々人間はどうだろうか。
動物達は動くことと静止することに間が切れ目なくつながっている気がするが、立ち止まっている人間が動き出すためには、「立つ」というスイッチをオフにしてからよっこいしょと「動く」というスイッチを入れる…
それくらいのタイムラグがある。
しばらく前に読んだ本に「返朴帰真」という言葉が書かれてあって良い言葉だと感じた。
私たちは何かになろうとするのではなくて、もともと持っていたもののうえに覆ってしまっている“それら”を取り去ることが必要なのではないだろうか。それは難しくも必要なことなのだと思う。
そのときに運動も所作も限りなく美しくなるのではないだろうか。
心においてはそれが悟りにつながるのではないかと。
昨日、地元に住んでおられる方からお電話を頂いた。
その方のご先祖様は私の兼務しているお寺の檀家さんであったといわれる。
どれくらい前かというと300年以上前だという(笑)
300年〜400年前に火事で兼務しているお寺が焼けそれを契機に現在の菩提寺に移られたとのこと。
現在の本堂は1840年頃建てられたことが棟札に記されているがそれ以前のことについてはよくわからない。
ある理由で本堂が失われ、その再建を悲願として関係者の大変な努力で本堂が再建されたらしい(200年前に丹後からはるばる江戸まで勧進にいったらしい)が、その理由が火事による焼失というのは在り得る話である。
お寺というのは長い長い歴史の流れのなかにあり、時に古い歴史の足音を聴くことがある。
一方、私たちは実に眼の前のことに没入してしまっている。
インディアンの教えのなかには物事を決めるときに7代先の子孫のことまで考えて決定する…と何かで読んだことがあるが、今の社会は眼の前の利害得失やその場の空気を読むこと、めまぐるしい時代の流れに乗ることに汲々としすぎている気がする。
娘のクラスメイトのお父さんは仕事の関係で何年かおきに転勤があるという。
その土地に数年だけ住まれて移動するというのもひとつのライフスタイルであるが、お寺というのは代々ひとつの土地に根付いて大勢の方と関わってゆく…随分と対照的な気がする。そこに大変さもやりがいも面白さもあるのだと思う。
太極拳を再開して1ヶ月になる。
肝愈のあたりがいつも凝っていたが(もっとも殆どの方は例外なくこの部分に凝りがあるのだが)、太極拳をはじめたら肩甲骨まわりがストンと抜けた感覚になり。凝りが殆ど無くなって気がする。
朝方もぼんやり考えていたのだが
東洋医学では人体は<気><血><水>の3つで出来ているというのが基本のコンセプトである。
<気>も<血>も<水>もいずれも『流れる』という性質を持っている。
太極拳はこの『流れ』を改善する力があるのではないかという感じがする。
曹洞宗に学ぶ友人から禅僧の方で太極拳を修めておられる方があると伺っていたのだが山口博永という方であることが分かった。
【太極道交会HP】http://taikyokudoukoukai.org/?p=123
活動を紹介されているHPでは拳禅一如という境地について解説されていた。
HPの「道長紹介」では台湾、中国での修行の記録もあって興味深く読ませて頂いた。
劉雲樵、徐紀、陳小旺など高名な師について学ばれたとのこと。
劉雲樵師ら名手高手の人となりがいかにも一流の武術家らしい。
殆ど「拳児」の世界である。思わず読みふけってしまった。
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