紫陽花の季節 心の垢をとる書法


六月も半ばを過ぎ、紫陽花も盛りである。




以前は6月になると山寺の周りにも沢山の紫陽花が咲いていたが、鹿の食害で枯死したもの、花芽を食べられて葉っぱだけになったものなど死屍累々である。





台所の裏手にも大きなアジサイの株があったが葉は繁っているものの花が全く無い。




花の咲かない紫陽花…実に寂しいものがある。




この時期、紫陽花の名所である福知山の観音寺や自然文化園の帰りに当山に立ち寄る方もある。



本日は20名ほどの団体の方が福知山、綾部の霊場をめぐり当山へ。




境内を案内しようと先に立って参道を歩いてゆくと…



参道の真ん中に巨大な鹿の○ンコが鎮座していた。


山寺の風情をご堪能くださいませ…







仕事柄、筆で字を書くことがある。



もちろん?下手である…



非常に困っているのは、毎年色紙を何十枚書かなければならないこと。




霊場会の札所巡礼を成満された方への記念品として札所の住職の色紙を進呈するのだが、自分の書いた下手な色紙が記念品として授与される…恐ろしくも恥ずかしい限りである。



みんなに読んでほしい本当の話―おしょうさんも泣いた25の生き方

みんなに読んでほしい本当の話―おしょうさんも泣いた25の生き方




先日、 篠原鋭一さんの著書を読んでいたらある書家にエピソードが載っていた。




書道の鬼といわれるまで書道に全身全霊を傾けていた書家が、展覧会の芳名録に書かれた子供の文字を見て判然と覚る。自分の書いたが名声や上手く書きたいという慾にまみれていると…



その書家は書家としての生きかたを捨て、雲水となって旅から旅への生活に送っているという。



激しくも純粋な生き方だと感じるが、書家について書かれたものを読むと、時々、そうした体験が綴られている。



書家の多くは、評価されればされるほど字が書けなくなり苦しみ抜くという…



実用的な書道を嗜むだけでの私でも自分の書いた字を見ていると「上手く書きたい」「褒められたい」といったエゴが自分の書いた文字から伝わってくるの感じることがある。これはなかなか辛いものがある(苦笑)



さとり実践呼吸書法―いろは・ひふみ言霊による

さとり実践呼吸書法―いろは・ひふみ言霊による




最近、気になって手にとったのは合気道開祖・植芝盛平翁に師事し合気道を鍛錬する傍ら、書家として活躍されている山本光輝という方の著書である。



普通、手本を臨書する場合、息を詰め、身体を緊張させて筆を運ぶ。



身体も心も固くなり、しばらく臨書を続けていると疲労を覚えてくる。



山本氏の提唱されているのは息を吐いて発声しながら運筆する方法で、書法と呼吸法を合致させたものである。



筆の持ち方も筆の上の部分を軽く持つ。そのことで筆のコントロールがしにくくなり、上手く書こうという意識から離れられるという。



山本氏は師事された植芝盛平翁に合気道とは人間の垢をとるものであり、強くなることが目的ではない…と教導された。山本氏はその後、高名な前衛書道家に同じく「書道とは心の垢をとること」と示唆を受けたことをきっかけに現在の書法が生れた。




息を吐きながら筆を運ぶと、それまで息を詰めて臨書していたときになない開放感のようなものがある。



上手く書きたいとか褒められたいというのが自分の心の垢だと思えば納得するほか無い。



そして「上手く書く」という意識から開放されたときの安心感はとても大きなものがある。



書道にかぎらず私達知らず知らずのうちに様々なエゴをまとって生きているが、それらが少し見えたようでこの書法に触れることができたことに感謝している。





山本氏の呼吸法を真似て「あ」「え」「い」「お」「ん」…などの音を息を吐きながら発声しているが、吐気と共に母音を発声していると声明のような響きを感じる。



息を長く吐きながらを母音を発声していると身体がゆるみ、手先が温かくなってくるように感じる。



心身をリラックスさせる呼吸法としても役に立ちそうである。



気のせいか母音を発声していると読経の声も心なしかよく通る(響く)ように感じる。



ブログランキ

ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)





.