懐かしいお菓子 朝ドラ受け 不幸になる方法 青山 俊董法話 


朝から終日雨模様。


雪が柔らかくなったようので夕方、ダメ押しで駐車場の残雪の上を車で縦横に走る。融雪が早まるといいのだが。


本堂で母と節分の準備少々。寒さが随分と弱まったのは在り難い。











京都に行った時にふと甘い物が食べたくなり五建屋のういろうを買う。



京都駅の構内で生のういろうを売っているので時々買う。真空パックで売られているういろうが多いが、生のほうが断然美味しいと思う。


このういろうは子供の頃から食べている味で、美味しさと懐かしさがないまぜになった味である。



味覚というのは記憶とつながっているのだろうが、懐かしいという味のものが時々食べたくなる。


昔はお菓子を食べる機会が今よりも少なかったし、お菓子の種類も限られていた。


京都には老舗と呼ばれる菓子店が沢山ある。五建ういろもそのひとつで昔より種類はふえたがベースにある蒸したもちごめの素朴な味と触感がなんともいえず美味しい。


昔たべた美味しく、懐かしいお菓子が未だに売られているというのはとても幸せな気がする。そしてこうした老舗がいつまでも続いてほしいものである。





【五建ういろう】http://www.gokenuiro.jp/






朝ドラを見て、それに続く朝イチの朝ドラ受けを見てようやく朝ドラは終る…



が、本日は朝イチで合気道家の藤平信一氏が出演されていたのですこし見てしまった。


学生時代に藤平信一氏の御父君である藤平光一氏の著書を読んで、合気道に興味を持ったことが心身のことを考えるきっかけになったように記憶している。


氣の威力

氣の威力


簡単な所作や意識の持ち方で私たちの心も体も変化するというのは実に興味深い。


つま先立ちになってかかとを静かに下ろすということを何回か繰り返すと体に芯が通っ全身をひとつに使うことができるという。


そのようにしてみると私の場合は下腹の丹田の辺りがどっしりと落ち着く感じがして心地よい。


運動科学者の高岡英夫氏はDS(ディレクトシステム)という心身論を提唱されているが、


一番大切なのは丹田とセンターであるという。この2つが整うと他のDSも自然に発達するといわれる。芯が通るというのはセンターの働きである、それが丹田ともつながっているというのは興味深い。



泥があるから、花は咲く

泥があるから、花は咲く




『子供を不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである。』(ルソー)



昨日パラ読みした青山 俊董「泥があるから、花が咲く」にルソーの言葉が載っていた。


日本の子供の不幸のひとつは豊穣の不幸ではないかという気がする・




もう一方の極には親から虐待やネグレクトがある。時には親によって死に至らしめられる幼い子供のことを思うと慄然とせざるを得ない。



今の子供達には不足の不幸と豊穣の不幸があってその間の細い道を歩いているのかもしれない。



最近、流れているソフトバンクのCMに時々違和感を覚える。


スマホを持った女子高生肩で風を切って歩いていて、スマホがあれば何でもできる!みたいなことを語る。そのCMを見るたびに違和感を感じる。



スマホは便利だが、ラインのグループのなかで回りの顔色を伺いながら返信している子供達はとても多い。これもまた豊穣の不幸であると思う。


泥があるから、花は咲く

泥があるから、花は咲く



「泥があるから、花が咲く」に「大衆威神力」(だいしゅいじんりき)という言葉について語られていた。


「大衆」(だいしゅ)とはお坊さんの集団、僧団のことのようである。


「大衆」(たいしゅう)という言葉は元来は仏教用語であったらしいというのは面白い。


1人で自分を律して座禅に打ち込んだり、厳しい戒律を守るのは難しくとも、大勢の仲間と一緒ならそれが成し遂げられることを指す言葉のようである。


僧団、教団というと中心的な指導者の存在を思い浮かべるが、実は横のつながりというものもその教団の力でもある。


考えてみると本山に居た頃は同門の仲間があればこそ厳しい?修行をのりこえることができたのだと改めて思う。



一方でラインやSNSのなかで取り残されまいと返信に懸命になったり、過剰なコミュニケーションに溺れている人、そのなかで心を失っている人をみるとこの大衆威神力という言葉が別の意味に捉えられる。


文字通り大勢との関わりのなかでどんどん自己を失わせてしまう。そういう力も多衆のなかにあるのではないかという気がする。



便利であればあるほどその怖さは見えないことが多い。とりわけ子供達がそのなかで自分を見失わないようしてほしい。そんなことを時々考える。





【闇から光に歩む…良いお話です。お話が途中で切れているのが残念ですが伝わってくるものがあります】


法(のり)の華鬘抄―法句経を味わう

法(のり)の華鬘抄―法句経を味わう



近頃とてもうれしい話を聞き、このせちがらい世の中、しかもこの寒空の中にあっても、私の心はカイロを抱いているようにホカホカと温かく、そのことを思い出すと思わずニコニコと顔がほころんでしまう。
ある研修会に講師として招かれ、三日間過ごした。もう一人の講師で、日頃から敬慕申し上げて来た米沢英雄先生が、休憩時間のひととき、煎茶茶碗を手でかこむように持ちながら、こんな話をして下さった。
「私の孫はね、運動がからっきし駄目なんですよ。走り競争をしてもいつもビリッコでしてね。この間の幼稚園の運動会でも、やっぱりビリッコを走っていたんだそうです。途中で孫の前を走っていた子供が転んだそうです。そしたら孫の奴、転んだ友達が起き上がって走り出すのを待っていてやって、まためでたくビリッコになったんですよ。親も親で、そのことをよろこんで話してくれましてね。ハハハ……」
さも嬉しそうに話して下さったおじいちゃん先生の笑顔が、今も私の心に焼き付いて離れない。人を蹴飛ばしてでも、先へ出ようとする人が多い今の世の中で、「あんた馬鹿ね!転んだのを幸いに追い抜いてゆけば、みじめなビリッコの思いをしなくてもすんだんじゃないの!」と言いかねない親の多い中で、その温かく、汚れなく、純なる心をそっと大切に見守り育ててやろうとしていて下さるご両親やおじいちゃんの姿は、転んだ子供が起き上がるのを待っていてやるお孫さんの姿と共にさながら天寿国曼荼羅を見る思いで、何とも嬉しいきわみである。
まじめに努力しながらも悪い成績をとって苦しんでいる高校生に、私はこの話をして励ましながら、更に言葉を添えた。
「一般世間のモノサシは、たとえばマラソンならいかに早く走るかとか、いかに能率良く仕事が出来るかというところにあるけれど、そうではない別のモノサシもあると思うのよ。兎と亀が走り競争をしたという昔話があるでしょう。亀が兎に勝ったというけれど、どんなに走っても、ふつうに走ったら亀が兎に勝てるはずがありません。兎が怠けて昼寝をしていたから、亀が勝つことが出来たのでしょ?そのことにどれだけの努力を払ったかというモノサシではかれば、ビリッコの亀が一番になり、それが仏さまのモノサシだという教えじゃないのかしら?一番二番と言う序列や結果よりも、その中味に何がもられているかということの方が大切、その過程が大切だということじゃないかしら。
ここでもう一つ考えておきたいことは、その努力の内容が、人に負けたくないと言うセリアイからの努力では駄目だということです。競争意識からだけの頑張りは、勝ったとき高慢になり、負けたとき劣等感にさいなまれて立ち上れなくなりますからね。又そういう努力のありようは長続きしません。疲れてしまいます。背比べせず、私の力なりに全力を尽くし、しかも結果は問わない、万一失敗しても悔いないという姿勢が大切なのよ。」(青山俊薫『法の華鬘抄』)



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