悲しみ 薄墨

 



グリーフ・ケアというテーマを調べに図書館に通っていたことがある。



グリーフ・ケアというのは大切な人が亡くなった悲しみをどう癒すかということである。



そういったことを扱った本には<お釈迦様なこういわれています>



みたいにお釈迦様の教えが引用されているものが少なくない。



その教え自体は素晴らしいのだが、その教えに触れて心底感じ入る人がどれだけいるだろうか…と少し空しい気がした。







お釈迦様の教えというのはお釈迦様が在世の折に聴衆に説かれたものである。



その教えを聴かれた人々はお釈迦様という圧倒的な御存在を通してその教えに触れたのである。



その“御存在”が無くなった以降の教えは、厳密には教えの一部でしかないともいい得るのではないだろうか。








大切な人を亡くされた方にとっては崇高な教えよりも


一緒に泣いてくれる人のほうがずっと切実にその悲しみを癒してくれるかもしれないというのも真実なのだと思う。




悲しんでいる人にどう接するかというのはとても重い、そして大切なテーマである。










昨晩は仏教会の会合。


今年1年の事業計画についての話し合いがもたれた。



ふと気がつくと私以外に何人かいたガラケー派の御住職が全員スマホに…


思わず「裏切り者!」と叫んでいました。


もちろん冗談ですが…



お坊さん以外にはニュアンスの伝わらない事柄というのが沢山あってお坊さん同士の気楽な雑談というのは面白いし、ためになる。



半日かけてパソコンに入力した過去帳がパソコンの不具合で消えてしまったとか…


「仏教的には諸行無常です」


となぐさめてあげました。


香典などの表書きを薄墨で書く慣習がある。


この慣習は京都では必ずしも一般的ではないが、広く知られている。


なぜ薄く書くのかについては



•悲しくて涙が止まらず、墨をいくら磨っても涙で墨が薄まった


とか


•悲しみで気力もなく、墨を磨る力も出なかった


とか


•あまりに急な出来事なので十分に墨を磨る時間も惜しく、急いで駆け付けた



などの諸説があるらしい。



昨晩の会合で出たのは最後の説が有力ではないかとのこと。





例えば香典には古いお札を用いるということもよくいわれる。



これも新札だと用意していたようだし、とりいそぎ…というニュアンスを出すと考えると納得がいく。




私がこれまで聞いたなかで印象に残っているのは四国の一部の地域で弔問の際に野良着を着て、鍬をかついで行く地域があるというもの。



これも同じようにとるものもとりあえず、慌てて参上しましたということなのだろう。
弔問に鍬とは少し意外だが、よく考えると納得がゆく。





こうした慣習は一見すると奇異におもえることもあるが、その背後には大切な人を亡くした方への気持ちをどう表現するかという配慮があるのだろう。






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